都をどりからオペラへとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 都をどりからオペラへの意味・解説 

都をどりからオペラへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:07 UTC 版)

日本館」の記事における「都をどりからオペラへ」の解説

1883年明治16年10月東京市浅草区公園六区二号地(現在の東京都台東区浅草2丁目5番)に開業した六区通り面した東側位置しひょうたん池北側接していた。開業当初は、娘都踊り都をどり)で知られた。 1909年明治42年5月六区四号南側新畑町(現在の浅草1丁目24番)に移転開業跡地映画館オペラ館」となり、M・パテー商会(のちの日活前身一社)の製作する映画上映した。 「オペラ館」を参照日本館」では、1917年大正6年)、大阪山川興行部東京小林商会製作した映画上映するが、両社作品供給は続かなかった。経営者桜井藤太郎は、当時人気集めていた三友館東京少女歌劇団に刺激されて、浅草初のオペラ常打ち小屋への転向決めて改築し歌舞協会高木徳子伊庭孝協力仰ぎ同年10月23日東京蓄音器現在の日本コロムビア)の佐々紅華が、石井漠杉寛沢モリノ河合澄子らと結成したオペラ劇団東京歌劇座」が旗揚げ公演行なった演目は、浅草オペラ幕開けとなった「女軍出征」、山田耕筰作曲石井漠振付新舞踊明暗」、佐々紅華作のオペレッタカフェーの夜」で、爆発的な人気呼んで浅草興行街席巻した。とくに沢モリノ河合澄子人気は凄まじく、「ペラゴロ」なる言葉まで生み出すほどだった。以降向かい金竜館並んで人気二分するオペラ常設館となった。同劇団には、小杉義男清水金太郎清水静子夫妻澤田柳吉加わり、翌1918年大正7年3月末まで公演した。同年4月以降は、戸山英二郎(のちの藤原義江)の在籍したアサヒ歌劇団」が公演した。

※この「都をどりからオペラへ」の解説は、「日本館」の解説の一部です。
「都をどりからオペラへ」を含む「日本館」の記事については、「日本館」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「都をどりからオペラへ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「都をどりからオペラへ」の関連用語

1
18% |||||

都をどりからオペラへのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



都をどりからオペラへのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日本館 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS