都をどりからオペラへ
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1883年(明治16年)10月、東京市浅草区公園六区二号地(現在の東京都台東区浅草2丁目5番)に開業した。六区の通りに面した東側に位置し、ひょうたん池に北側で接していた。開業当初は、娘都踊り(都をどり)で知られた。 1909年(明治42年)5月、六区四号地南側の新畑町(現在の浅草1丁目24番)に移転・開業、跡地は映画館「オペラ館」となり、M・パテー商会(のちの日活の前身の一社)の製作する映画を上映した。 「オペラ館」を参照 「日本館」では、1917年(大正6年)、大阪の山川興行部や東京の小林商会の製作した映画を上映するが、両社の作品供給は続かなかった。経営者の桜井藤太郎は、当時人気を集めていた三友館の東京少女歌劇団に刺激されて、浅草初のオペラ常打ち小屋への転向を決めて改築し、歌舞劇協会の高木徳子と伊庭孝に協力を仰ぎ、同年10月23日、東京蓄音器(現在の日本コロムビア)の佐々紅華が、石井漠、杉寛、沢モリノ、河合澄子らと結成したオペラ劇団「東京歌劇座」が旗揚げ公演を行なった。演目は、浅草オペラの幕開けとなった「女軍出征」、山田耕筰作曲・石井漠振付の新舞踊「明暗」、佐々紅華作のオペレッタ「カフェーの夜」で、爆発的な人気を呼んで浅草の興行街を席巻した。とくに沢モリノと河合澄子の人気は凄まじく、「ペラゴロ」なる言葉まで生み出すほどだった。以降、向かいの金竜館と並んで人気を二分するオペラの常設館となった。同劇団には、小杉義男、清水金太郎・清水静子夫妻、澤田柳吉が加わり、翌1918年(大正7年)3月末まで公演した。同年4月以降は、戸山英二郎(のちの藤原義江)の在籍した「アサヒ歌劇団」が公演した。
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