遠勝死後の十市氏とは? わかりやすく解説

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遠勝死後の十市氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 17:29 UTC 版)

十市遠勝」の記事における「遠勝死後の十市氏」の解説

遠勝の死後十市家中十市後室(遠勝の妻)とおなへを奉じる松永派と、一族十市遠長擁して筒井順慶応じようとする筒井派に分裂した松永派は遠勝の死去直後永禄12年1569年11月高田氏斡旋で、竹内秀勝通じて十市城を開け渡すとの誓紙松永方に渡している。しかし同年12月には筒井氏興福寺の兵500十市城に入り松永派の河合権兵衛六人重臣十市後室とともに今井移った元亀元年1570年6月松永久秀久通父子十市城に対し開城交渉行ったが、城内応じず、7月筒井順慶500の兵を率いて十市城に入り、城を固めた元亀2年1571年8月筒井方の越智氏箸尾氏が十市郷に攻め寄せ十市郷の半分両氏押領されることとなった同年12月には、十市郷は筒井氏押さえられている。元亀3年1572年7月十市後室とおなへは柳本城に移った天正元年1573年)、松永久秀織田信長降り筒井順慶信長近づく天正3年1575年3月には塙直政大和守護任じられた。同年5月信長朱印状により十市郷は3つ分割され塙直政松永久通十市氏に与えられ十市氏の分は十市遠長と遠勝後室とで折半となる。7月龍王山城でおなへは松永久通祝言をあげているが、これは久通与えられ旧領十市氏が保持しようしたため推測される天正3年11月久通十市城の十市遠長攻め12月には柳本城を落城させる。翌天正4年1576年2月久通森屋城を落とし3月には再び十市城を攻めた最終的に原田(塙)直政十市城を接収し、遠長を河内国追放して事を収めている。 天正5年1577年10月松永久秀信貴山城拠って信長反抗し最後自刃した(信貴山城の戦い)。このとき柳本黒塚にあった久通柳本衆により自害させられた。 天正7年1579年)、布施氏より養子迎えられ、おなへの婿となり、十市新二郎名乗って十市氏の家督継承した天正13年1585年8月筒井定次伊賀国移封となった際、新二郎はこれに従い大ノ木庄で1,000石の知行与えられた。一方河内から大和戻っていた十市遠長筒井氏のもとにあったが、伊賀への転封には従っておらず、天正14年1586年)、十市郷に残る侍衆の所払い遭って伊予国渡った慶長13年1608年6月筒井定次家臣中坊秀祐訴えられ改易となった。このとき十市新二郎牢人となり、以後消息不明である。

※この「遠勝死後の十市氏」の解説は、「十市遠勝」の解説の一部です。
「遠勝死後の十市氏」を含む「十市遠勝」の記事については、「十市遠勝」の概要を参照ください。

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