過去の労働事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 02:25 UTC 版)
東芝やその関連会社に勤める社員の過労死認定等の労働事件は以前から存在していた。 1965年社長となった土光敏夫は「社員諸君にはこれから3倍働いてもらう。役員は10倍働け。俺はそれ以上に働く」と宣言し、労働運動への締め付けを強めた。1969年には、日本共産党党員及び同調者を排除するための非公然組織「扇会」が社内に作られたとされ、社内の「問題者」を監視。土光退任後の1974年に全国組織となり、労働運動、思想に対する弾圧を行った。また、労働組合の骨抜きを図るべく、組合にも扇会の会員が送り込まれた。電機連合委員長、連合副会長を歴任した鈴木勝利も、扇会の会員であったという。 1981年には東芝府中事業所(府中工場)材料加工部製缶課で上司が社員に対して頻繁に始末書・反省書提出を強要、課員全員による無視(職場八分)するなどのいじめが行われた。社員は精神的に追い詰められ、7月には病院に運ばれ、2週間の欠勤を余儀なくされた。会社は欠勤分の給与をカット。被害にあった社員は1982年、会社と上司を相手取って賃金と慰謝料の支払いを求める民事訴訟(東芝府中人権裁判)を起こした。1990年2月1日、東京地方裁判所八王子支部は賃金と慰謝料の支払いを命じる判決を下した。会社は即日控訴したが、控訴審で扇会の内部資料が証拠提出されるなどし、1992年9月22日控訴を取り下げ。社員勝訴の1審判決が確定した。
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