軍の近代化・西洋化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 06:15 UTC 版)
「ハイダル・アリー」の記事における「軍の近代化・西洋化」の解説
ハイダル・アリーはカーナティック戦争に参戦した経験から、優れた火器を持つ歩兵を中心とした英仏軍の優秀性を見て、軍の近代化および西洋化を進める必要性を認識していた。 また、戦乱の時代である18世紀のインドにおいては、軍の整備及び強化はもはや必然だった。デカンおよび南インドの諸国は、英仏どちらかの軍事顧問を自国に招聘し、西洋諸国の先進的な軍事技術あるいは戦術を取り入れ、強力な武器弾薬を持つ西欧式軍隊を組織していた。 ハイダル・アリーは西洋式の軍事訓練を認め、自ら指揮する軍団に導入したばかりか、 1755年にフランスの助力の下でディンディガルに近代的な兵器工場を建設した。彼はは実権を掌握する1761年より以前から、混血も含んだインド在住のポルトガル人を外国人部隊として雇っていたが、彼はこれにフランスの軍事顧問と将校らも加え、マイソール軍の中核をなす部隊を組織した。 また、ハイダル・アリーはこのほかにも、多数の正規部隊と非正規部隊を組織したが、その中にはムスリムに改宗させた孤児や部族民などを集めたチェーラと呼ばれる親衛隊もあった。これらの部隊の兵士らに支払われる給料は、基本的に現金によるものであった。 先述におけるマイソール戦争での勝利も、これらの軍政改革によるものが大きかった。また、軍の近代化は莫大な費用が掛かるものだったが、それを可能にしたのは先述の税制面における改革が大きかった。 また、1763年にカナラ地方の併合に成功すると、マンガロールの港に造船所を建設し、相当数の艦隊を持つようになった。この艦隊は第2次マイソール戦争で甚大な被害を被り、その後再建されることはなかった。
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