越中平定・康暦の政変
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やがて貞治6年(1367年)に父が失意の中没すると、まもなく義将は幕府より赦免され、再び越中守護に補任された。越中守護に再任した義将は、長年にわたって同国に勢力を張る桃井直常・直信(前越中守護)兄弟の討伐を推し進めていく事になる。桃井兄弟は建武年間から活躍する武将であり、特に兄の直常は足利直義・直冬の強力な与党として、幾度となく幕府を苦しめた猛将と知られていた。これに対して義将は越中・能登等の北陸勢を率いて桃井軍に挑み、応安2年(1369年)10月には直常の篭る松倉城を攻略した。落ち延びた直常ら桃井一族は、翌建徳元年(1370年)に婦負郡長沢において決戦を挑んだが、この合戦で義将は直常の子直和を敗死させるなど大勝利を手にした。敗れた桃井一族は、南朝勢力や飛騨の姉小路氏の支援を受けてなおも抵抗を試みるものの、建徳2年(1371年)の五位荘の合戦で吉見氏などに敗れた以降は斯波氏に駆逐され、ここに越中は幕府軍に完全に制圧された。 困難と思われた越中平定と桃井追討を成し遂げた義将は諸侯中でもその名声を高め、その後は義詮正室で同族でもある渋川幸子に接近してこれと結ぶなど幕府内での基盤を着実に固めていく。この頃、幕政を主導していたのは若い3代将軍足利義満を補佐していた細川頼之であったが、義将は守護国である越中や、越前国内の所領において国人と守護代との騒動などから頼之と対立することもあり、貞治の変以来の因縁もあったために反頼之派の旗頭となっていく。この勢力には道誉の没後に頼之と不和になった京極高秀(道誉の子)も加わり、次第にその勢力を拡大させていった。 天授5年(1379年)、ついに義将は高秀や土岐頼康ら反頼之派の守護大名と糾合し、兵を用いて将軍邸である花の御所を包囲するに至った(御所巻)。義将は義満に迫って頼之の罷免を求め、頼之を解任させて自身が管領に任じられることを目論んだ政変(康暦の政変)に成功する。罷免された頼之は自邸を焼いて領国のある四国へ落ち延び、ちょうど貞治年間の義将と逆の形となった。
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