越中平定・康暦の政変とは? わかりやすく解説

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越中平定・康暦の政変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:20 UTC 版)

斯波義将」の記事における「越中平定・康暦の政変」の解説

やがて貞治6年1367年)に父が失意の中没すると、まもなく義将幕府より赦免され、再び越中守護に補任された。越中守護に再任した義将は、長年わたって同国勢力を張る桃井直常・直信(前越中守護)兄弟討伐推し進めていく事になる。桃井兄弟建武年間から活躍する武将であり、特に兄の直常は足利直義直冬強力な与党として、幾度となく幕府苦しめた猛将知られていた。これに対して義将越中能登等の北陸勢率いて桃井軍に挑み応安2年1369年10月には直常の篭る松倉城攻略した落ち延びた直常ら桃井一族は、翌建徳元年1370年)に婦負郡長沢において決戦挑んだが、この合戦義将は直常の子直和敗死させるなど大勝利を手にした。敗れた桃井一族は、南朝勢力飛騨姉小路氏支援受けてなおも抵抗試みるものの、建徳2年1371年)の五位荘の合戦吉見氏などに敗れた以降斯波氏駆逐され、ここに越中幕府軍に完全に制圧された。 困難と思われ越中平定桃井追討成し遂げた義将諸侯中でもその名声高めその後義詮正室同族でもある渋川幸子接近してこれと結ぶなど幕府内での基盤着実に固めていく。この頃幕政主導していたのは若い3代将軍足利義満補佐していた細川頼之であったが、義将守護国である越中や、越前国内の所領において国人守護代との騒動などから頼之と対立することもあり、貞治の変以来因縁もあったために反頼之派の旗頭となっていく。この勢力には道誉没後に頼之と不和になった京極高秀道誉の子)も加わり次第にその勢力拡大させていった天授5年1379年)、ついに義将は高秀や土岐頼康ら反頼之派の守護大名糾合し、兵を用いて将軍邸である花の御所包囲する至った御所巻)。義将義満迫って頼之の罷免求め、頼之を解任させて自身管領任じられることを目論んだ政変(康暦の政変)に成功する罷免された頼之は自邸焼いて領国のある四国落ち延び、ちょうど貞治年間義将と逆の形となった

※この「越中平定・康暦の政変」の解説は、「斯波義将」の解説の一部です。
「越中平定・康暦の政変」を含む「斯波義将」の記事については、「斯波義将」の概要を参照ください。

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