超芸術トマソンの発見と命名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 13:52 UTC 版)
「トマソン」の記事における「超芸術トマソンの発見と命名」の解説
1972年、赤瀬川原平、南伸坊、松田哲夫が、東京・四谷(新宿区四谷本塩町)の旅館・祥平館脇の道を歩いているときに、上り下りする形態と機能はありながら、上った先には出入り口が無く、降りてくるしかない立派な階段を発見した。しかもその手すりには補修の跡があり、大事に保存されていることがうかがわれた。 翌年、赤瀬川原平が、西武池袋線江古田駅でベニヤ板で塞いである使われなくなった出札口(切符売り場の窓口)に気付いた。そのベニヤ板は、長年の銭の出し入れでくぼんだ石の表面にあわせて必要以上に律儀に、微妙な曲線に切断されていた。 また、南伸坊が、お茶の水の三楽病院で、きわめて堂々とした造りでありながら、出入り口だけがきっちりとセメントでふさがれた通用門を発見し報告をした。 こうした物件は「四谷の純粋階段」「江古田の無用窓口」「お茶の水の無用門」と名付けられ、共通する概念として浮上した「超芸術」=《芸術のように実社会にまるで役に立たないのに芸術のように大事に保存されあたかも美しく展示・呈示されているかのようなたたずまいを持っている、それでありながら作品と思って造った者すらいない点で芸術よりも芸術らしい存在》の例として認識された。 「超芸術」の中でも不動産に付着するものをひと言で言い表す愛称、通称、のようなもの、固有名詞として、「トマソン」という名前が与えられた。当時、赤瀬川が講師をしていた美学校「考現学教室」の生徒の議論の中でこの名前が決まった。なお、トマソン選手の三振の記録は132(当時プロ野球歴代4位)で、途中で退団した1982年にはそれを上回るペースだった。 この概念が赤瀬川の連載のあった白夜書房の雑誌『写真時代』で1982年に発表され、「考現学教室」の生徒たちの「探査」活動や赤瀬川自身の採集による「物件」の写真が赤瀬川の筆で発表され読者からの物件の報告を誌上で発表解説するというかたちがとられると一つのブームとなり一挙に「トマソン」の概念が広まった。『写真時代』の連載は途中で白夜書房刊の単行本『超芸術トマソン』にまとめられた。この単行本は連載途中までの掲載で、のちに筑摩文庫から文庫版で出る時に全てが収められた。なお赤瀬川の連載は同じく末井昭編集長の雑誌「ウィークエンドスーパー」の連載「自宅でできるルポルタージュ」が雑誌名変更とともにいつのまにか「超芸術トマソン」に代わったものである。
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