赤間神宮の祭事とは? わかりやすく解説

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赤間神宮(山口県下関市)の祭事

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 14:05 UTC 版)

先帝祭」の記事における「赤間神宮山口県下関市)の祭事」の解説

壇ノ浦の戦いの翌文治2年1186年)、後鳥羽天皇長門国に勅して安徳天皇遺骸納めた阿弥陀寺(現赤間神宮境内御影堂建立し安徳天皇命日3月24日)にその遺徳を偲ぶ先帝会修したのが起源といい、以後毎年3月24日安徳天皇御陵の前で「御陵前祭」を営み明治以降祭日太陽暦4月23日)に改め例祭とし、その後更に現行日(5月2日)へと改めた2日平家落人の子孫らで組織される全国平家会参列のもと御陵前での神事始め平家一門追悼祭などがある。翌3日に、平家遺臣中島四郎太夫という者が、漁師に身を窶し平家再興計りつつ下関潜伏先帝会には威儀を正して参拝したという故事因んでその子孫端を発する中島組」という漁業団体員が参拝、これを「中島組参拝の式」という。それに次いで上臈官女参拝の式(「上臈道中」)」となるが、これも壇ノ浦の戦いの後に在地苫屋に援われた建礼門院平徳子)の侍女達が、在地苫屋養われつつ御陵香花手向け先帝会には容姿整えて参拝したことに縁由するという。その後妓楼を営むようになった苫屋主人が、侍女達及びその遺族没したために、抱え遊女達にその風俗真似て宮廷装束に身を纏わせて参拝させるようになり、これが江戸時代至って当時存在した稲荷町遊廓遊女によって受け継がれて、現在の上臈道中じょうろうどうちゅう)」となったといい、吉原の花魁に模した太夫が禿(かむろ)、上臈稚児警固(けいご)らを従え下関市中を外八文字踏んで歩く。 例祭翌々4日には神幸祭が行われる。 関門海峡挟んで対岸となる福岡県北九州市小倉祇園祭りとこの祭りは、昔から「関の先帝小倉祇園が降らなきゃ金が降る」と降らない大勢人々祭り繰り出してたいそうな賑わいとなる模様をこう言った下関市指定無形民俗文化財指定されている。

※この「赤間神宮(山口県下関市)の祭事」の解説は、「先帝祭」の解説の一部です。
「赤間神宮(山口県下関市)の祭事」を含む「先帝祭」の記事については、「先帝祭」の概要を参照ください。

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