しっち‐そうどう〔‐サウドウ〕【質地騒動】
質地騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/13 17:17 UTC 版)
質地騒動(しっちそうどう)は、江戸時代中期に発生した一揆。享保7年(1722年)に発布された流地禁止令によって引き起こされた、質流れとなった田畑を巡る騒動である。享保7年10月14日に発生した頸城質地騒動(頸城騒動)と、享保8年(1723年)の長瀞質地騒動(長瀞騒動)の2つの一揆が、これに相当する。
概要
江戸時代当初は、農民が質入れした田畑を質流れにすることは禁止されていた。しかし、元禄8年(1695年)6月に出された質地取扱の覚により、証文に質流れを認める旨の文言さえあれば、その通りにするという、質流れによる田畑の所有権移転が認められることとなった。
流地禁止令は、「質地取扱の覚」は江戸の町方の屋敷地の取扱いを田畑に適用したものであり、田畑永代売買禁止令にそむくこととして、「田畑の質入れは認めるが質流れは認めない」という趣旨の法令であった。しかし、この法令は各地で混乱を引き起こし、中でも質流れによって田畑を失った農民たちが、自分たちの土地を取り返そうとして大きな騒動にまで発展した事件があった。これが越後国頸城郡の頸城騒動と出羽国村山郡で発生した長瀞騒動である。
両騒動とも、
- 流地禁止令の発令によって生じる混乱や損失を恐れた名主たちが、農民たちに御触れの説明をしなかったこと
- 禁止令の条文を独自に入手した農民側が、この法令を徳政令と解釈し、質流れになった田畑を取り戻そうとしたこと
- その地を治める代官所では騒動を鎮めることができなかったため、幕府は近隣の藩に出兵を命じたこと
といった共通点がある。
なお、流地禁止令は享保8年(1723年)8月に廃止となっている。
参考文献
- 『大岡越前守忠相』 大石慎三郎著 岩波新書
- 『土地制度史 2』 北島正元編 山川出版社
- 『日本の歴史 17 町人の実力』 奈良本辰也 中公文庫 ISBN 4-12-204628-9
- 『シリーズ藩物語 高田藩』 村山和夫著 現代書館 ISBN 978-4-7684-7112-8
- 『国史大辞典』第2巻 吉川弘文館 ISBN 4-642-00502-1
- 『国史大辞典』第6巻 吉川弘文館 ISBN 4-642-00506-4
- 『国史大辞典』第9巻 吉川弘文館 ISBN 4-642-00509-9
質地騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/10 14:38 UTC 版)
同年2月7日、楯の内(たてのうち)村の利右衛門(りえもん)の家に集まった一同は、まず名主の新右衛門の元に押しかけ、同じく名主である総右衛門と長右衛門も呼び寄せて、質流地禁止令の布令が出ていることを確認させた。そして、田地を取り返し、利子の超過分を払い戻すよう詰め寄った。 名主たちは代官所の漆山陣屋に訴え出たが、同所にいた手代の返答は、代官の秋山彦太夫(あきやまひこだゆう)が江戸から陣屋にやってくるのは秋になるのでそれまで待ってもらえというものであった。それまで待てないと考えた長瀞村の村民380人は、同月11日、新右衛門の家に押し寄せ、要求どおりにするよう談判に及んだ。 代官所に鎮圧してもらうよう名主たちは願い出たが、400人近い村人たちを相手にできる武力が無いため、代官所の手代はまず13日に新兵衛たち中心人物に召喚状を出して交渉しようとするが誰も応じなかった。再度召喚するが、それに応じないばかりか彼らは46人の債権者の家から田畑の質入証文や流地の証文320通を強引に取り上げてしまった。中には質流れになっていた自分の田地をとり返しただけでなく、すでにその土地に新しく家屋を建てて居住していた債権者を追い出し、自分がその家に住んでしまう者までいた。 それに対し、債権者たちは名主・組頭の連署で正式に代官所へ訴えたことから、同月20日に代官手代の木村斧右衛門(おのえもん)が、事態を報告するため江戸に向かった。それを知った一揆勢は債権者のもとへ押し寄せ、あらかじめ用意した文句通りに書くように強要して、「借金の証文は双方話し合いの上で渡した」という証文を取り付けたが、債権者たちもそれが脅迫されて書いたものであることを代官所に訴え出ていた。 3月10日、代官の命をうけた手代の吉田貞七と宇野丹蔵が漆山に到着。債務者と債権者の双方から提出させた証文やその写しを調べ始めたが、取り上げた本証文の写しを差し出すようにという命令を、すでに話し合いで解決したことだからという理由で一揆勢は拒否した。再度の命令も聞かないばかりか、一揆勢は代官所を取り巻いて気勢を上げたので、吉田と宇野は債権者側の言い分を元にした調書だけを作成した。そして一揆勢に対して、質地証文をとりあげた理由を書き、それに本人の署名をして持参するよう命じた。一揆勢は、質流地禁止令に基づいて話し合いでなされたこと、自分たちの元に田地が戻ってきた上はしっかりと耕作し、年貢もそれ以外の諸役も務めるという口上書を書いて104人分の署名を集めて提出した。
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