賎民への没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 16:39 UTC 版)
戦国時代が終わり、豊臣政権は武士・百姓・町人といった近世的身分を設定しはじめた。太閤検地の際に作成された検地帳に「かわた」の記載が数多く見出され、それらが後の「えた」となった事が判明している。ただし検地帳における肩書きには大工・鍛冶・杣(そま)など明らかに職業名とみられるものがあり、当時のかわたが職業なのか身分なのかについては論争の的である。 しかし次の様なことから豊臣政権の下で「かわた」が身分として規定され始めたとする説が有力である。 検地帳以外の史料から、当時のかわたの一部に行刑・警察・掃除などの役務が課せられていた。この役負担は後の「えた」身分と共通しており、戦国期の「かわた」とは基本的に異なる。例えば信濃国松代藩では慶長3年(1598年)11月、「かわや惣頭」孫六に対し、領内の百姓一戸ごとに籾一升を徴収する慣習権を認める一方、「箒」や「鉄砲胴乱」、「馬の鼻皮」の上納を命じると共に城内の掃除と牢番の役務を課していた。 検地帳にかわたの分住の形跡があった。天正19年(1591年)の「江川栗太郎之内蘆浦村御検地帳」に「蘆浦村屋敷方」とは別に「蘆浦之内かわた屋敷分」という記載。また、文禄3年(1594年)の「河内国丹北郡布忍郷内更池村御検地帳」にも「更池村屋敷方」とは別に「更池村かわた屋敷」と記されている。 太閤検地帳に基づいて村方で作成された文禄4年の摂津国川辺郡御願塚村の名寄帳に、本村百姓→「かわた」→あるきの順で記載されている。 豊臣期の記録に本村とは別に「かわた村」として出てくる事が少なくない。この事実は後の「えた村」と同様に権力によって百姓身分とは別の身分の者が居住する村として位置づけられていたことを示す。 以上のことからこの時期のかわたが本村百姓と混住している事例がみられるとしても、豊臣政権の下かわたが身分として規定されはじめていたといえる、なお、太閤検地帳の名請人の肩書きとして「かわた」と記載されているということは当時のかわたが一定の土地を持ち農業に従事していたことの証拠である。他の一般百姓と比較すれば平均持高が若干少ないという傾向はあるが、中には20石前後という高い持高のかわたも認められる。その後かわたは近世を通じて農業と深いかかわりを持ち続け、決して皮革業だけで生活していたのではなく、種々の社会階層の人々も含まれていたのである。
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