豪サラ・米サラの導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 10:05 UTC 版)
「オパールオーキツト」の記事における「豪サラ・米サラの導入」の解説
とはいえ、日本国内は外貨不足で、海外から種牡馬を買い付けることは不可能だった。 そんな折、1948年(昭和23年)に日本脳炎の流行が馬産地を襲った。当時の日本には約100万頭の馬がいたが、この年日本脳炎を罹患した馬は3224頭でて、10月初めまでにこのうち1055頭が死んだ。アメリカの競馬雑誌『ブラッド・ホース』では特集記事が組まれ、「日本のサラブレッドの半数が死滅してしまった」「アメリカ競馬界から日本に対する好意の証として種牡馬と競走馬を贈呈しよう」と報じた。 これとは別に、1951年(昭和26年)にアメリカのカトリック系の慈善団体が、寄付金をもとに日本へ援助物資を輸入することになった。競馬界ではこのつてでアメリカで購入した競走馬・種牡馬を日本へ持ち込み、日本で売却する計画が持ち上がった。この年9月にサンフランシスコ講和条約が締結されると、計画が実行に移され、11月にアメリカのカリフォルニアで買い付けた50頭の競走馬が、翌春(1952年春)に日本に輸入された。これらは農林省と軽種馬生産農協によって行われ、輸入された50頭はすべて国営競馬の馬主に割り当てられた。このほか白井新平も独自にアメリカからのサラブレッドの輸入を行った。この時期アメリカから輸入されたサラブレッドは「米サラ」と呼ばれた。 国営競馬は1948年(昭和23年)に旧来の日本競馬会にかわって創設されたのだが、従前の競馬が「日本産馬の改良」を目的とし、外国産馬の出走を大きく制限していたのに対し、国営競馬の規則では、こうした制限が一切撤廃された。 米サラが競馬場でデビューしてみると、次々と新馬戦を勝った。そのため初めのうちは、米サラによって日本国内のサラブレッドが駆逐されてしまうのではないかという不安が大勢を占めていたが、時間が経つと米サラの優位は失われ、距離が延びると日本産サラブレッドのほうが優勢になった。米サラのほうが早く生まれたぶん、2歳の若馬時代には成長に差があるのと、血統的に短距離向きであるとみなされるようになった。 一方、大井競馬を行なっている東京都と特別区競馬組合らは共同で得居喜一、鈴木勇をオーストラリアに派遣し、1952年(昭和27年)5月に2歳と3歳の牝馬あわせて30頭を輸入した(豪サラも参照)。競馬共助会監事の津軽義孝伯爵競走馬17頭、妊娠中の牝馬7頭を購入した。これらのオーストラリア・ニュージランド産のサラブレッドは「豪サラ」と呼ばれた。豪サラはもっぱら南関東公営競馬の馬主に抽選馬として配布された。オパールオーキットもそのなかの1頭である。これらの豪サラは既に競走年齢に達しており、オパールオーキットも11月に大井競馬場で初出走した。
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