諸称号の自称
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「コンスタンティノス・コムネノス・アリアニテス」の記事における「諸称号の自称」の解説
コンスタンティノスは、バルカン半島にキリスト教国家による支配を復活させる野望を抱いていた。1490年代以降、彼は自身がテッサリアとマケドニアの正統な君主であると自称し、「マケドニア公」と称した。後にはここに「アカイア公」の称号も加わった。この2つの称号は、サンティ・アポストリ教会の彼の墓にも刻まれている。1502年、最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の甥にあたるアンドレアス・パレオロゴスが死去した。彼が称していた「コンスタンティノープルの皇帝」と「モレアス専制公」が空位となり、コンスタンティノスは後者を請求するようになった。彼は自分がコムネノス家の後裔であることや、妻フランチェスカがパレオロゴス家の末裔であること(ただし、この一族出身の最後の皇帝たちの裔ではない)を根拠に、教皇と神聖ローマ皇帝間の外交で活躍するにあたり「モレアス専制公」の称号を利用した。 1494年、フランス王シャルル8世がイタリアに侵攻し、コンスタンティノープル征服を目的とする、オスマン皇帝バヤズィト2世への十字軍設立を宣言した。同年11月、シャルルは貧窮していたアンドレアス・パレオロゴスから「コンスタンティノープルの皇帝」の称号を購入していた。シャルル8世はモンフェッラートでコンスタンティノスと会見し、コンスタンティノスはその場で、王のコンスンタンティノープル侵攻を支援し、アルバニアで反乱を引き起こして陽動を行うことを約束した。しかして彼がヴェネツィアで計画を練っていた時、オスマン帝国への侵攻が現実のものとなることを恐れたヴェネツィア政府のシニョーリアが彼を逮捕しようとしたため、彼はプッリャに逃れた。結局、シャルル8世がオスマン帝国に侵攻することはなかった。それでもコンスタンティノスは反オスマン帝国陰謀を練り続けた。彼は外交官として、オスマン帝国とヴェネツィア共和国の力を弱めるべくカンブレー同盟結成に尽力したが、期待した結果は得られなかった。 1514年、教皇レオ10世はコンスタンティノスをアドリア海沿岸でアンコーナに近いファーノの総督に任じた。バルカン半島へ遠征するとなればその出発点となるのがファーノであり、かつて1460年代にピウス2世が十字軍を行おうとした時にもその集結地と目された街だった。コンスタンティノスの総督任命は、レオ10世自身の十字軍願望のあらわれであった可能性もある。彼はヴェネツィア、スペイン、イングランド、ポルトガルの艦隊からなる十字軍を構想しており、彼がコンスタンティノープルの皇帝の候補としてフランス王フランソワ1世に白羽の矢を立てたといううわさも流れた。しかし20年前のシャルル8世の時と同様、レオ10世の十字軍計画が実行に移されることはなかった。
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