諸称号の自称とは? わかりやすく解説

諸称号の自称

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 14:39 UTC 版)

コンスタンティノス・コムネノス・アリアニテス」の記事における「諸称号の自称」の解説

コンスタンティノスは、バルカン半島キリスト教国家による支配復活させる野望抱いていた。1490年代以降、彼は自身テッサリアマケドニア正統君主であると自称し、「マケドニア公」と称した。後にはここに「アカイア公」の称号加わった。この2つ称号は、サンティ・アポストリ教会彼の墓にも刻まれている。1502年最後ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世の甥にあたるアンドレアス・パレオロゴス死去した。彼が称していた「コンスタンティノープル皇帝」と「モレアス専制公」が空位となり、コンスタンティノス後者請求するようになった。彼は自分コムネノス家後裔であることや、妻フランチェスカパレオロゴス家末裔であること(ただし、この一族出身最後の皇帝たちの裔ではない)を根拠に、教皇神聖ローマ皇帝間の外交活躍するにあたりモレアス専制公」の称号利用した1494年フランス王シャルル8世イタリア侵攻しコンスタンティノープル征服目的とする、オスマン皇帝バヤズィト2世への十字軍設立宣言した同年11月シャルル貧窮していたアンドレアス・パレオロゴスから「コンスタンティノープル皇帝」の称号購入していた。シャルル8世モンフェッラートコンスタンティノス会見しコンスタンティノスその場で、王のコンスンタンティノープル侵攻支援しアルバニア反乱引き起こして陽動を行うことを約束したしかして彼がヴェネツィア計画練っていた時、オスマン帝国への侵攻現実のものとなることを恐れたヴェネツィア政府のシニョーリアが彼を逮捕しようしたため、彼はプッリャ逃れた結局シャルル8世オスマン帝国侵攻することはなかった。それでもコンスタンティノスは反オスマン帝国陰謀練り続けた。彼は外交官として、オスマン帝国ヴェネツィア共和国の力を弱めるべくカンブレー同盟結成尽力したが、期待した結果得られなかった。 1514年教皇レオ10世コンスタンティノスアドリア海沿岸アンコーナに近いファーノ総督任じたバルカン半島遠征するとなればその出発点となるのがファーノあり、かつて1460年代ピウス2世十字軍行おうとした時にもその集結地と目された街だった。コンスタンティノス総督任命は、レオ10世自身十字軍願望あらわれであった可能性もある。彼はヴェネツィアスペインイングランドポルトガル艦隊からなる十字軍構想しており、彼がコンスタンティノープル皇帝候補としてフランス王フランソワ1世白羽の矢立てたといううわさも流れた。しかし20年前のシャルル8世の時と同様、レオ10世十字軍計画実行移されることはなかった。

※この「諸称号の自称」の解説は、「コンスタンティノス・コムネノス・アリアニテス」の解説の一部です。
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