説1-2 新居‐舞浜間渡海忌避説とは? わかりやすく解説

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説1-2 新居‐舞浜間渡海忌避説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 22:55 UTC 版)

姫街道」の記事における「説1-2 新居‐舞浜間渡海忌避説」の解説

内藤 (1972, p. 134)は、道程でいえば姫街道本街道よりも20キロメートル長くなり、本坂峠の急峻な坂道静岡側の気賀までの間にある低い丘をいくつも越えなければならず、加えて山道には追いはぎ強盗出没する不安もあったため、船渡しがあっても路面平坦な本街道のほうが通行しやすく、道中の不安も少なかったではないか、としている。 内山真龍の『遠江国風土記伝』は「嶺頭少しく平なり、駕を休むる所、嶺頭に人家なく、駅路人馬寒暑苦しむ」として本坂越え苛酷さを記し新居関所関守をしていた富永政愈の『今切御関所由来』では「本坂越は道狭くけわしく箱根笛吹峠より難く恰も蜀難の地の如し一度往く者は二度越えんことを思わず」と記されている。 浜松市役所 (1971, p. 180)は、今切渡船については「舞坂天気日和)も静か、名のみ荒井舟渡し」という諺があるほど普段穏やかだったので、女性子供でも特に不安はなかったはずだ、とし、小杉 (1997, pp. 171172)もこの反論言及している。 気賀関所 (2016a)は、宝永4年1707年)の地震の後、浜名湖南岸迂回するため本坂越の通行量増加幕府宝永7年1710年)に大名本坂越を禁止したが、公家奥方姫君女中衆はこの街道を使用し続けたことから、本坂道は「姫様道」「姫街道」と呼ばれた、としている。 小杉 (1997, pp. 174175)では、(説4)および(説1-1)を幕末に「女人道」や「女街道」の呼び名生まれた由来しながらも、特に「姫街道」「姫様街道」のように呼ばれた理由としては、関所手形持っているため関所忌避する必要のない身分の高い女性本坂道利用した理由があったはずだとし、『本坂道宿村大概帳』の中で「京都から姫や宮方江戸に行く時は気賀三ヶ日嵩山などの宿場人馬不足するから、加助郷触書を出さなくてはならない」として特に「姫や宮方」が本坂道を通ることを強調していることを指摘し、その理由渡海忌避したことにあったではないか、としている。同書はその例として、文政元年1818年)の菅沼斐雄『袖くらべ』の中に、「香川景樹が舟を嫌うから荒井の渡し避けて本街道より5里も遠回りになるけれど本坂越という山道を行く」旨の記載があることや、『東海道名所図会』の御油の項で本坂越が「荒井今切海上を渡らずして陸路を行」く路と紹介されていることを挙げ前出清河八郎西遊』の記述もあり、渡海への不安に比べて本坂越はさほど困難な峠道ではなかった、としている。

※この「説1-2 新居‐舞浜間渡海忌避説」の解説は、「姫街道」の解説の一部です。
「説1-2 新居‐舞浜間渡海忌避説」を含む「姫街道」の記事については、「姫街道」の概要を参照ください。

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