語源とその用法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 05:05 UTC 版)
アンジュー帝国とは、ヘンリー2世とその息子であるリチャード1世、ジョンといったプランタジネット朝の君主が支配した領域を指すものとして近代に作られた歴史用語である。ヘンリー2世の別の息子であるジョフロワ2世はブルターニュを統治して分家を築いた。歴史家が知る限りでは、同時代にはアンジュー家の統治に関してはそのような言葉は用いられなかった。しかしながら、「我々の王国や万事全てがあらゆる支配に服属している」といった記述が使われた。「アンジュー帝国」という言葉は1887年にケイト・ノーゲイトが出版した『England under the Angevin Kings』で初めて使われた。フランスでは「Espace Plantagenêt」(プランタジネット朝の領域)は時々、プランタジネット家が支配した封土に関する記述として用いられる。 「アンジュー帝国」という呼び名は、半世紀にも及ぶ同君連合によりイングランドとフランス間の互いの影響が広まったという点で再評価を迎えた。アンジェヴィン(アンジューの)という言葉自体はアンジュー地方及びその中心都市であるアンジェの居住者に用いられる。プランタジネット家はアンジュー伯ジョフロワ1世の子孫であるため、この言葉が使われた。 「帝国」という言葉は何人かの歴史家の間で論争を呼び起こした。領域はヘンリー2世の相続と占領によって統合されたからである。これらの領域において何らかの共通のアイディンティティーが共有されたのかは明らかでない。何人かの歴史家は、当時の西ヨーロッパに唯一の帝国と呼ばれた政治組織である神聖ローマ帝国が存在していたことから、「アンジュー帝国」という言葉は完全に保留すべきだと論じた。別の歴史家はヘンリー2世の帝国は強力ではなく、中央集権的ではなく、また広大でもないので帝国と呼ぶにはふさわしくない、と論じた。「アンジュー帝国」という言葉によって仄めかされているような、帝国の称号はそこには存在していなかった。しかしながら、幾人かの年代記作家達(特にヘンリー2世自身に仕えていたような人物)は、たとえプランタジネット家自身が帝国の称号を主張していなくとも、このような領土の集積を形容するのに「帝国」という言葉を用いた。実際の最高位の称号は「イングランド国王」であり、それにフランスの地の公や伯の称号が加わるが、それらは完全かつ全体的に独立しており、幾つかはイングランドの法には属していなかった。これらのことから何人かの歴史家は、アンジュー帝国は互いの結び付きが緩い7つの独立した君主国が集まっていることを強調して「連邦帝国」という言葉を用いている。
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