試験・運用結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/07/03 19:50 UTC 版)
1939年(昭和14年)1月の陸軍工兵学校からの評価には以下のものがある。本機の構造と取り扱いは簡単であり、運搬は容易である。性能は強烈な震撼力を特徴とし、同時に地域的な破壊力を持っている。工兵の肉薄破壊作業の援護には欠かせない機材である、としている。 1938年(昭和13年)10月中旬、工兵第16連隊は沙窩南方に位置する大別山中での戦闘で本機を使用し、大きな効果があった。また第13師団では、同年同月の将軍寨高地攻略にあたり本機を投入した。これには期待以上の大きな効果があり、突撃部隊と協調して使用することで特に効果が増幅された。投擲機は遂次陣地を攻撃、歩兵はこれに追従した。陣地は幾重にも敷かれていたが奪取に成功し、味方の損害は最小限にとどめられた。 投擲機は、徳安付近の迂回作戦に投入されて効果を現した。 投擲機は二軒家の戦闘で投入された。付近は側防重火器で堅固に防御されており、第101師団歩兵第149連隊第1大隊がこれに対して攻撃を実施した。しかし攻略に時間をとられれば、後方の渡河地点を遮断されるおそれがあった。工兵第101連隊第1中隊の鳥海小隊は敵前50mに前進し、本機で爆薬を投擲した。小隊は敵の攻撃が怯んだ際に肉薄、爆薬を投入し、さらに歩兵も突入して占領を完了した。 本機は西山付近の戦闘に投入された。西山一帯は高地であり、鉄条網が張られ、敵陣地は円形陣地を山頂に構えた堅固なものであった。10月15日10時30分から砲兵による一時間の集中射撃を加え、ついで射程を伸ばして突撃の支援砲撃へと移行した。歩兵は突撃を開始した。この時点まで敵側からの応射は1発もなかったが、敵陣地230m前に張られた鉄条網の線に歩兵が迫ったとき、手榴弾による猛烈な反撃が行われた。友軍歩兵の一部は陣地内に突入したが、後背を断たれて突撃は失敗した。陣地内には巧妙に兵と手榴弾が配置されていた。戦況が頓挫したため工兵中隊は爆薬投擲機4機を投入して支援に当たった。陣地は突破された。 1938年(昭和13年)10月下旬、第101師団は徳安河渡河作戦を実施、工兵第101連隊は本機で直接支援に当たった。渡河中、投擲機は煙幕を張り、また側防火器の破壊を行った。 戦訓としては、本機の取り扱いは簡単であり、教育も簡単ですむ。不発も少なく、爆薬戦闘の価値は非常に大きいというものである。爆裂缶は爆薬量3.6kgである。爆風以外の殺傷効力は少なく、缶を肉厚として多少の破片効果を加えるよう具申があった。
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