解放令制定の経緯
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当法令が検討された最初の案は、明治2年(1869年)12月に民部省改正掛の渋沢栄一より、大蔵大輔大隈重信(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)にあてて提出された戸籍に関する草案である(現在早稲田大学社会科学研究所「大隈文書」)。これは、改正掛には渋沢や前島密など郷士や農民などから幕臣を経て明治政府に仕官した者が多く、早くから人権の確立や四民平等の必要性を自覚していた層であった。また、実務面でもその身分の種別数が少ない方が事務処理に便利であるという側面もあった。この案をほぼそのまま継承した「戸籍編成例目」が翌明治3年(1870年)3月に正式に大蔵省から太政官に提出されたが、戸籍を大蔵民部省(当時、大蔵省と民部省が実質統合されていたことから付けられた俗称)が行うことに東京府知事大木喬任を始めとして地方官が反対したことから実現しなかった。 皮肉にも7月になって大久保利通と木戸孝允・大隈重信の対立を原因とする政争の結果、大蔵省首脳が民部省の同じ役職を兼務していたことで統合されていた民部省に新たに東京府知事であった大木喬任が大隈の後任の民部大輔に就任し、吉井友実(少輔)・松方正義(大丞)ら大久保派が就任した。これを受けて改正掛にいた旧幕臣の杉浦譲が「戸籍編成例目」を手直しして四民平等を前面に出した戸籍法案を建議するものの、大木は大江卓の献言を受けて穢多非人の解放の基本方針には賛成するが、生活改善事業と並行して漸進的に行うべきであり、今回の戸籍制定には関連づけないとして、明治4年(1871年)4月4日に穢多非人を先送りにしたままの戸籍法が制定された。 その後、再度の内紛によって各省の大輔・少輔人事が一旦白紙に戻され、大久保が大蔵卿と就任することを条件に民部省は大蔵省に再統合された。やがて統合後の大蔵省から、全ての無税地を廃止して地租を徴収しようとする地租改正の構想が出されると、従来無税扱いとなっていた穢多非人の所有地からも当然地租を徴収するための大義名分が必要となり、解放令に白羽の矢が立てられたとも言われる。さらに、欧米諸国が解放令を後押ししたことも追い風となった。欧米諸国はその大半が身分制度を廃し、平等を唱えていた。このため、欧米列強諸国はこぞって明治政府に対し、キリスト教の容認とともに賤民制廃止を要求したのである。そして、明治4年8月28日に解放令は公布された。
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