解放令の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 09:33 UTC 版)
解放令発布後2年間を準備期間とする。1863年2月19日に全農奴が「人格的に」無償で解放される。しかし土地所有権は全く領主に留保された。僕婢でない農奴は土地を有償で分譲してもらえる。対価は条例によった。権利書は領主の選んだ役人の調停により作成される。農民側が調停に参加するときは、個々人ではなくて、共同体が交渉の単位となったし、対価を支払う責任も負担するものとされた。この対価は巨額であるので、政府が75-80%を農民に貸し付ける形で領主に証書で代納できることになっていた。この貸付金は年賦であったが、年利6%をつけて49年間かけて返さなくてはならなかった。1912年に完済をめざして、ロシア政府は共同体を再編成し統治機構に組み込んだが、実際の行政は領主に委ねられた。 分譲可能面積は条例で細かく決められていた。肥沃かどうかで4地域がさらに区分され、1人あたりの分譲率を定めていた。領主は、農民との合意のもとに無償で贈与するという条件で、大幅に可能面積を削減する権利を与えられていた。可能面積は最大でも所領適地の2/3であって、この制限が分譲率と競合した場合に優先された。具体的な分譲地の配置は領主が自由に決めることができた。総じて、農民に分譲された面積の平均は、解放前の耕作面積より小さかった。人口調査登録農1000万人あまりの95.2%が6デシャチナ以下であり、2-4デシャチナしか保有しない農民だけで54.2%を占めた。 物納は認められず、基本的に対価は貨幣で支払うこととされた。まず土地代は、条例の貨幣地代に100/6をかけた値とされた。貨幣地代が6ルーブルなら土地代は100ルーブルとなった。大ロシアの場合は土地代だけでなくて、解放前に領主が農民の人格に課していた貢租も貨幣に換算のうえ対価に組み入れられた。非黒土地帯の領主は土地の等級分けを利用し対価を稼いだ。特定の分譲可能地には大枠の対価が決まっており、それを最初に分譲する1デシャチナに50%も、次の1デシャチナには25%も割りあて、残りの分譲地ぜんぶに対価の25%を配分するようなことをしたのである。こうして分譲面積が狭い場合でも領主は高収入をあげた。
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