解放と終戦
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1944年中頃には、「最終計画」はおよそ完成していた。ナチスが容易に手の届く範囲のユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅された。ポーランドではユダヤ人の約90%、フランスでは25% が殺害された。5月にヒトラーは、「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問題は解決した」と演説している。1944年後半になると、殲滅計画を続けることは難しくなった。ドイツ軍はソビエト連邦やバルカン半島・イタリアから撤退を余儀なくされ、同盟国の日本とイタリアも敗色が濃厚になった。ソ連軍が東ポーランドの強制収容所に接近すると、囚人はドイツ国内の収容所に移された。すでにドイツのインフラは崩壊寸前であり、ユダヤ人は収容所から収容所へ食料もなく冬の中を無理に徒歩で移動させられた(死の行進 (ホロコースト)(英語版))が、その過程でさらに10万人が犠牲となった。 収容者に比べて管理する親衛隊の看視兵数は非常に少なく、また、しばしば敵機が飛来したことから戦況の悪化が収容者にも知られ、ソビボルとトレブリンカでは蜂起が発生したが、いずれも鎮圧された。トレブリンカではこのとき少数ながら脱走に成功する収容者が出たため閉鎖され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に統合された。その他の収容所も、アウシュヴィッツの収容能力が上がったため同様に統合された。東部占領地域の収容所は証拠を残さぬよう徹底的に破壊された。90万人の死体が埋められたはずのトレブリンカでは、埋葬地の痕跡さえ残っていない。1944年7月23日マイダネク強制収容所がソ連軍によって解放され、1945年1月27日アウシュヴィッツも解放された。アウシュヴィッツのガス室などの設備は前年の1944年10月に全て爆破されており、ソ連軍が到着した時、看視兵とともに移動できなかった病者や残留を希望した者など約7,000人の収容者を除けば、大量虐殺の証拠はほとんど隠滅されていたと言われる。ベルゲンベルセンでは捕虜6万人が保護され、死体1万3千体が遺棄された状態で発見された。また、ダッハウ強制収容所を占領したアメリカ軍は、その凄惨さを見て看守たちを殺害するという事件が起きている(ダッハウの虐殺)。その後アメリカ軍は、強制収容所内部を地域住民に強制的に見学させた。
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