解放と逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:32 UTC 版)
奴隷が解放されることはほとんどの社会で存在し、解放された奴隷は解放奴隷として独特な地位を占めることが多かった。解放奴隷は多くの場合自由民からは一段低い立場と見なされた。またすべての社会において、解放奴隷は元の主人の保護下に置かれた。 逃亡はどの社会でも禁止されていたが、実際に逃亡奴隷は多く、なかでも16世紀以降の新大陸においてはマルーンと呼ばれる逃亡奴隷が大量に発生し、しばしば山岳地帯や辺境に共同体を築き上げ、またその地域のアメリカ先住民と通婚して同化し、白人と戦闘を行った。山岳に立てこもってイギリス軍と長期にわたる戦闘を繰り広げたジャマイカのマルーンや、内陸に一大勢力を築いたブラジルのキロンボなどが知られている。アメリカ合衆国において19世紀半ばに奴隷制廃止運動が盛んになると、南部の奴隷州から北部の自由州へと奴隷の逃亡を手助けする地下鉄道と呼ばれる秘密結社が結成され、多くの奴隷がこのルートで逃亡していった。また奴隷が反乱を起こすことも歴史を通じてみられ、共和政ローマにおける3度の奴隷戦争、なかでも第三次奴隷戦争(スパルタクスの反乱)や、9世紀のアッバース朝統治下メソポタミアで起きたザンジュの乱などのように、一国を揺るがすような大反乱へとつながることもあった。なかでも1791年にフランス領サン=ドマングで勃発した奴隷反乱は、トゥーサン・ルーヴェルチュールやジャン=ジャック・デサリーヌらの指導の下でハイチ革命となり、フランス軍を追放して1804年にはハイチとして独立した。
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