西洋の博物学の移入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 16:18 UTC 版)
日本は島国であり、地形の起伏に富むため、固有種が多い。そのため大航海時代以降、ヨーロッパの学者は日本の動植物の研究を希望していたが、当時日本は鎖国政策を取っていたため入国ができなかった。そのようななかで、わずかにオランダ商人だけが出島への寄港を許されていたので、彼らに混じってやってきた学者たちがいた。代表的なのは「出島の三学者」と呼ばれるケンペル、ツンベリー、シーボルトである。彼らはいずれもオランダ人ではなかった。 この出島の三学者によって、西洋の博物学の手法が日本に紹介された。ケンペルは出島に薬草園を作った。ツンベリーはリンネの弟子であり、多数の植物を採集し、また中川淳庵・桂川甫周らに植物標本の作成法を教授した。シーボルトは動植物のみならず日本の文物を大量にオランダに送った。その中のひとつであるアジサイの一種を、日本での妻タキにちなんで「オタクサ(おタキさん)」と名付けた。 幕末の黒船来航の際には、博物図鑑の大著『アメリカの鳥類』が幕府に献上された。開国後には、ロバート・フォーチュンら多くのプラントハンターが日本に訪れた。 明治に入ってから、伊藤圭介や田中芳男、お雇い外国人のモースらによって、博物学が正式な形で日本に移入された。また、明治以降は上述のアマチュア博物学も盛んになった。とりわけ華族・皇族が博物学に打ち込んだ(昭和天皇#生物学研究、明仁#科学者として)。
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