裏日本中継・東北中継
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:06 UTC 版)
このように開戦当時の輸送目標を達成できなかった青函航路であるが、1942年(昭和17年)10月の閣議決定「戦時陸運の非常体制確立に関する件」では、青函航路の貨車航送能力増強には相当の時間が必要なため、“表日本の海上危険を避くると共に、海上運航効率向上を図る為、可及的裏日本揚げの石炭輸送を増加し、且つ之に照応する港湾荷役及陸上輸送力の増強を図る”との決定もなされた。これは従来より北海道、樺太産の石炭の一部、年間150万トン程度は地場消費用として日本海沿岸の各港へ送られていた。これを増強し、小樽港や室蘭港から機帆船で船川港、酒田港、新潟港、富山港、伏木港、七尾港、敦賀港、舞鶴港の日本海側各港に至り、以後貨車に積み替え京浜・中京・阪神への鉄道輸送につなぐ“裏日本中継”が1942年(昭和17年)10月から開始された。これら港湾では船車連絡設備の増強が実施され、青函航路の機帆船輸送と並行して運航された。その実績は1942年(昭和17年)度は53万2000トン、1943年(昭和18年)度は218万1000トン、1944年(昭和19年)度は158万6000トン、1945年(昭和20年)度は35万7000トンに達した。さらに“東北塩釜中継”も加わり、こちらは1944年(昭和19年)度には57万5000トン、1945年(昭和20年)度には22万1000トンを運び、これら両中継の合計は全期間を通じ、いずれも青函航送石炭量を上回り、青函航路の増強遅れを補うものであった。
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