裁判での敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:04 UTC 版)
1943年12月には、ビーシグから控訴裁判所でも有罪判決が出たが、ACLUとしては最高裁判所に控訴する意向があるとの報告を受けた。時を同じくして、コレマツの兄弟達はアメリカの市民権を持たない一世である両親を残して、収容所を離れることとなり、元の西海岸へは戻ることができなかったため、収容所と同じユタ州のソルトレイクシティにある鉄工所で水タンクを修理する仕事に就いた。しかし、仕事を始めて3か月後に、自分たち日系人が白人の同僚の半分しか給料をもらっていないことに気がついた。コレマツは、雇い主に「それでは不公平だ。同じだけの給料を払ってくれ」と詰め寄ったが、その雇い主が「文句を言うと、収容所に送り返すぞ」と脅迫してきたため、怒ったコレマツは鉄工所を辞めた。その後は、ミシガン州デトロイトに移り、溶接工の仕事に就いたが、絵が非常にうまかったことが偶然上司の目に留まり、以降は土木会社で製図工として働くようになった。 1944年12月には、ビーシグから最高裁判所でも「日本人のスパイ活動は事実であり、戦時下では軍事上必要な事態である」との言い分のもと、有罪判決は覆らなかったという知らせを受け、その後30年以上に亘って沈黙を守り続けることとなり、家族にも一切これらの経験を話さなかったという。 裁判後は、デトロイトに移り住んですぐに知り合った細菌学者のキャサリン・ピアソンと1946年秋に結婚し、1949年にはカリフォルニアに戻り、1950年には長女カレン、1954年には長男ケネスをもうけた。カリフォルニアでも製図工の仕事に就き、休日にはゴルフを楽しむほか、教会やライオンズクラブでのボランティア活動に勤しむという生活を送ったが、犯罪者としての前科があることから、大企業や公的な役職に就くことはできなかった。
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