蘭州事件から禁教へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:11 UTC 版)
かつて馬明心が拠点を置き、その後フフィーヤに追い出された青海ではサラール族の間でジャフリーヤの勢力が拡大していった。1765年、青海のサラール族の村において、葬儀をフフィーヤの儀式で行うかジャフリーヤの儀式で行うかということをめぐって村じゅうで激しい争いが発生し、ついには死者まで出る事態となった。争いは村の中にとどまらずサラール族全域に広がっていった。 1781年3月、馬明心の弟子である蘇四十三らがフフィーヤを殺傷した。フフィーヤはこれを地方政府に訴え、これに応じた河州の長官らは兵をあげてジャフリーヤを捕らえようとしたが返り討ちにあった。地方政府がフフィーヤを支持することを見越した蘇四十三率いるジャフリーヤは反乱を起こし、2、3日の間に循化や河州を奪取した。この騒動のさなか、清朝政府はジャフリーヤの指導者が馬明心であることを知り、甘粛省の会寧で彼を捕らえ、蘭州城へと連行した。馬明心の逮捕の翌日から蘭州は、馬明心の弟子である蘇四十三に率いられたサラール族を中心とするジャフリーヤ反乱軍によって包囲された。ジャフリーヤの攻撃は猛烈を極め、1781年3月27日、官吏は馬明心を城壁に立たせて無事を知らせることで退去させようとしたが、馬明心を見たジャフリーヤは彼の名を叫びながら泣き、その様子を恐れた官吏はその場で馬明心を殺害した。 ジャフリーヤ反乱軍が蘭州を包囲している間に蘭州の総督である勒爾錦によって率いられた政府軍は河州に進軍し、循化では300人のジャフリーヤを捕らえた。その後、勒爾錦はジャフリーヤの退路を断ったうえで蘭州へ向かった。ジャフリーヤの攻撃に対して清朝政府は最新鋭の火器と共に兵糧を蘭州に送り、河南から討伐軍を派遣した。蘭州に集まっていたジャフリーヤ反乱軍は行き場を失って近くの華林山に立てこもった。華林山は断崖絶壁で水泉がなかったうえに、政府軍には実戦経験がないものが多かったためジャフリーヤは有利な状況だった。しかし、河南からの討伐軍が到着すると形勢は逆転し、約1000人のジャフリーヤはおよそ100日間の抵抗を経て全滅した。また、蘭州金城関に集まっていたジャフリーヤの女性500人も全滅した。 華林山を攻撃しているときから乾隆帝はジャフリーヤ反乱軍のしぶとさに怒り、戦闘終結後にはジャフリーヤ根絶を図って「郷約」という役職を創設し回民の監視を行った。また、この反乱にかかわった人物や死亡したジャフリーヤの遺族を全員処刑したうえで祖先の墓を掘り返した。また、政府は他のジャフリーヤを流罪に処し、男は雲南へ、女は西方へと流された。これは雲南と寧夏にジャフリーヤが根付くきっかけとなった。その後、清朝の滅亡までジャフリーヤは禁教とされた。
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