著作者について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 21:00 UTC 版)
「偽フレデガリウス年代記」の記事における「著作者について」の解説
現存している写本は、いずれも著者名が欠けている。"フレデガリウス"という名前 (現在のフランス語のFrédégaireに相当する)は、最初、1579年に歴史家のクロード・フォーシェ(英語版)の著作であるRecueil des antiquitez gauloises et françoises(古代のガリアとフランス)で使われた。この著作を誰が書いたかは論争を呼び、歴史家ウォレス・ハドリル(英語版)は"フレデガール" が正しく、それは珍しい名前であるとすれば、フランク人のだからだとしている。この著作で使われている俗ラテン語は、年代記がガリアで書かれたことを示しており、これ以外は、この著作の起源についてはほとんど確かなことはわからない。結論としては、著作者について諸説が提示されている: 遅くとも1878年に、年代記はひとりの人物によって書かれたものであるとする見解が議論もなくして始まった。 1883年にブルーノ・クルシュ(ドイツ語版)は、モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカの彼の担当部分で、年代記は3人の著作者達によって作られたものだと提起し、この見解は後にテオドール・モムゼン、ヴィルヘルム・レヴィゾン(英語版)、ウォレス・ハドリルらに受け入れられた。 フェルディナンド・ロト(英語版)はクルシュの複数著作者説を批判し、この批判は1928年マルセル・バルドー(Marcel Bardot)とレオン・レヴィライン(フランス語版)らによっても支持された。 1934年にジグムント・ヘルマン(ドイツ語版)はクルシュ説の見直しを提案し、著者二人説を提起した。 1963年 ウォルター・ゴッファルト(英語版)は、単独著作者説を再度唱え、この見解は現在一般的に受け入れられている。 フレデガリウスは、アヴァンシュ(英語版)地方出身であったことから通常ブルグント人だったと考えられている。なぜならば、彼はこの地域の地方的な名称であるウィフリスブルク(Wifflisburg)を知っているためである。この推定は彼が多くのブルグント人の教会の年代記を見ることができたという事実によっても支持されている。彼は王宮文書も見ることができ、実際にランゴバルド人や西ゴート人、スラブ人の使節と会話することができた。彼のビザンツ帝国 に関する知見も、通常、ビザンツ支配下のイタリアに近接するブルグントの位置によっても説明づけられる。
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