英国実行説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:09 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニの死」の記事における「英国実行説」の解説
イギリスの戦時秘密作戦部隊である特殊作戦執行部(SOE)がムッソリーニの死に関与したという主張は複数存在しており、そこでは当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルがムッソリーニ殺害を指示した可能性が示唆される。これらの説においては、ムッソリーニの殺害は、ムッソリーニとチャーチルの間で交わされた「不名誉な内容」の往復書簡を回収し、両者の秘密協定を隠蔽するための裏工作の一環なのだという。問題の書簡は、ムッソリーニがパルチザンに拘束された際に所持していたとされ、その内容には「ムッソリーニがヒトラーを説得し、ドイツを欧米諸国による対ソビエト連邦連合に引き入れることと引き換えに、講和および領土的譲歩をムッソリーニに約束する」旨の申し出が含まれていたという。英国実行説の提唱者には歴史家のレンツォ・デ・フェリーチェ(英語版)やピエール・ミルザ、ジャーナリストのピーター・トンプキンズやルチアーノ・ガリバルディが含まれるが、この説が受け入れられることは少ない。 1994年、かつてのパルチザン指揮官であるブルーノ・ロナティは著書の中で、ムッソリーニを射殺したのが自分であり、ペタッチを射殺したのは彼の任務に同行した「ジョン」というイギリス陸軍士官であると主張した。ジャーナリストのピーター・トンプキンズは、シシリー島にルーツを持つSOEエージェントの男、ロバート・マキャロンが「ジョン」の正体であることを突き止めたと主張している。ロナティによれば、4月28日の朝、彼と「ジョン」はデ・マリアの農家に赴き、午前11時ちょうど頃にムッソリーニとペタッチを射殺したという。2004年、イタリアの公共放送テレビ局RAIで、トンプキンズが共同制作者を務めるドキュメンタリー番組が放送され、英国実行説が前面に押し出された。このドキュメンタリーの中でロナティはインタビューを受けており、デ・マリアの農家に到着した際の様子について次のように証言した。 ペタッチはベッドの上に座っていたが、ムッソリーニは立っていた。ジョンは私を外に連れ出し、ムッソリーニとペタッチの2人ともを殺害することが、彼に与えられた命令なのだと告げた。ペタッチは、生かしておくには多くを知りすぎていたからだ。私は、「私にペタッチを撃つことなどできない」と言った。それで、ジョンがペタッチを撃つことになったが、同時にジョンは「ムッソリーニの方は、必ずイタリア人によって殺されなければならない」と言った。 ロナティらはムッソリーニとペタッチを家の外に出し、近くの小道の端まで連れ出した。そして、2人を塀を背にして立たせた後に射殺したという。このドキュメンタリーには、母がロナティらによる処刑を目撃したと語る、ドリーナ・マッツォーラという女性のインタビューも含まれていた。マッツォーラは自身も銃声を耳にしたと主張しており、その際に「時計を見ると、もうすぐ11時になる頃だった」と証言した。同番組は、その後のベルモンテ荘における発砲は「隠蔽工作」の一部として演出されたものだと主張した。英国実行説は、それを証明するために必要な証拠が欠落していることで批判を受けているが、とりわけチャーチルとの往復書簡の存在が証明されていないことは批判の対象となっている。SOEの活動の歴史を研究しているクリストファー・ウッズは、2004年に放送されたRAIのドキュメンタリー番組についてコメントし、番組内での主張について、「陰謀論の愛好に過ぎない」と完全に否定した。
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