芸術・文化活動
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陶芸は趣味で、50歳を過ぎてから本格的に自ら作陶するようになった。1933年には千歳山の自宅に窯を開き、本格的に作陶を開始した。主に抹茶茶碗を製作した。作風は自由奔放で破格と評される。陶芸のほかに、書や画もよくしたが、あくまでも趣味としての立場を貫き、生涯にほとんど売ることはなく、出来上がった作品は友人知人に分け与えた。 豊富な財力で、1930年(昭和5年)に「財団法人石水会館」を設立し、同名の文化施設を津市中心部の丸の内に建設して文化事業を支援した。文化施設は1945年に戦災により焼失したが、財団法人はその後も文化活動を行った。同年、自宅のある津市南部の千歳山に川喜田家の所蔵品収蔵庫として千歳文庫を建設した。また、1942年(昭和17年)「からひね会」をつくり、後に人間国宝となる陶芸家の荒川豊蔵、金重陶陽、三輪休雪を支援した。戦後、千歳山の自宅が進駐軍に接収されたため郊外の広永へと移転し、自宅にあった窯もこの地に移した。1945年に百五銀行の頭取から会長に退き、1950年には相談役となった。1955年には再び千歳山に住まいを移した。 死後、「石水会館」を母体として1980年「石水博物館」が設立され、川喜田家に所蔵されていた半泥子の作品を公開していた。石水博物館はその後、2011年に千歳山に新築移転している。 専修寺玉保院の境内には地理学者の稲垣定穀の墓碑や陶芸家・川喜田半泥子の墓がある。川喜田家の墓所の右側2つ目が半泥子の墓で、仙鶴院と刻まれている。半泥子の遺志で祖母と妻と供に1つの墓に入る。
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