自首と裁判へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:50 UTC 版)
馬丁の注進で各所の御門に近衛兵を配して固めつつ中を麹町の方から6人の男が宮内省の正門に近づき中の2人が少しも臆する色も無く口を揃えて「拙者どもただ今紀尾井町において大久保参儀を待ち受け殺害に及んだ。宜しくこの旨を申し通じ、相当の処分を施す様に」と自首して来た。 門前は参朝する馬車にて雑踏していたので、守卒は6人を門内に入れ、直ちに東京警視本部第三課に引き渡した。この時、長連豪は紋付黒羽織を着、島田一郎は無地に羽織を着て各々、建白書を懐中に入れ出頭した。6人は東京警視本署に引き渡され後に鍛冶橋監獄に収容され、判事の玉乃世履(たまのせいり)、判事の岩谷龍一、検事の岡本豊章、検事の喜多千顯(きたちあき)によって数回の審問が行われた。政府は彼らを国事犯として大審院の中に臨時裁判所を設けて裁判を行った。当時、八重洲下二丁目の東京裁判所、警視局の北側に大審院と司法省があった。刺客の審問に並行して名古屋鎮台を経由して金沢にも伝えられ連累者も次々と逮捕された。 刺客6人と連累者の判決は7月27日、臨時裁判所で玉乃判事より下された。刺客6人、島田一郎31歳、長連豪23歳、杉本乙菊30歳、脇田巧一29歳、杉村文一18歳、浅井寿篤30歳に対しては徐族の上斬罪を又、連累者の陸義猶、松田克之ら22名にも判決が下された。島田一郎の判決は「石川県士族 島田一郎、其方儀、自己の意見を挟み、要路の大臣を除かんことを企て、長連豪、杉本乙菊、浅井寿篤を誑惑し、明治11年5月14日、府下紀尾井町に於いて、連豪以下4人と共に、大久保参儀を殺害せし科により、徐族の上、斬罪申しつけ候こと」とのことである。 判決後、そのまま一同は市谷監獄に護送され処刑された。切り手の山田浅右衛門が白刃を手に現れ「何か言い遺す事はないか」と尋ねたが島田は首を振り「この後に及んで、何もごさらん」と応え自ら首を差し出した。続いて長連豪が引き出され連豪に対しても浅右衛門は尋ねたが連豪は穏やかに「北の方向はどちらでござろうか?」と尋ねた。その方向を指差すと、その方向に3拝9拝した。北は故郷で今も母がいるので先立つ不孝を詫びたようであった。後に山田浅右衛門は「この人は永らく西郷翁の許にあって感化を受け帰国したそうだが、手前の刀な錆にするのは惜しい気がした。」と述べている。 また、玉乃判事も「獄中にあっても誠に爽やかで、少しも取り乱したり虚勢を張らず少しも曇りもなかった、惜しい人を亡くした」と述べている。長連豪は食事に供された鶏卵の黄身をとっておいてそれを箸の先につけて筆墨に代えて詩文を書き連ねていた。これを『卵木集』と名付け看守の好意で死後、故郷に送られた。
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