背番号10・クラブ消滅危機(キャリア中期)
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「澤登正朗」の記事における「背番号10・クラブ消滅危機(キャリア中期)」の解説
1997年は、背番号が固定背番号制になり、以前からスタメン出場の時に付けていた背番号10を正式に背負うことになった。また、この年は清水エスパルスが経営破綻によるクラブ消滅危機となり、大幅な減俸を余儀なくされ、前年に結婚して子供も生まれ、他クラブからオファーがあり移籍も考えたが、学生時代からサッカー選手として清水に育ててもらった恩と、ファン・サポーターのクラブ存続に対する熱意を強く感じ、チーム残留を決定。登録メンバーはリーグ最少の24名となり、ユースチームからメンバーを借りて紅白戦を行うこともあるなど厳しい状況であったが、リーグ戦31試合出場11得点と活躍し、年間順位は5位となった。 1998年は、5月9日の1st第12節のヴィッセル神戸戦で、リーグ戦初となるハットトリックを達成。1stステージはジュビロ磐田と優勝争いを演じ、最終節で勝ち点が並ぶ接戦となったが得失点差で2位に終わった。同年9月23日、2nd第7節の鹿島アントラーズ戦では、Jリーグ史上初のリーグ戦200試合出場を達成した。また、1998年はシーズン序盤に突発性難聴発症というアクシデントに見舞われたが、自身のプロキャリアの中で最多得点となる公式戦15得点を挙げる活躍を魅せた。 1998年のリーグ戦終了後、アルディレス監督に代わり、コーチを務めていたペリマンが新たに監督となり、1999年の元日にはクラブ初の天皇杯決勝に臨んだ。横浜フリューゲルスとの対戦となった決勝戦では、前半13分にファビーニョのクロスを澤登がダイビングヘッドで先制。前半44分、天皇杯終了後に清水に移籍が決まっていた久保山由清にゴールを決められ同点に追いつかれると、72分に追加点を許し敗戦。横浜フリューゲルスのラストゲームに華を添え、準優勝となった。
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