背景と初期の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/24 02:12 UTC 版)
「ノックスビル方面作戦」の記事における「背景と初期の動き」の解説
テネシー州東部の山岳地は大半が北部支持の地域であり、エイブラハム・リンカーン大統領はこの戦争の重要な目標と考えていた。北部に忠実な住民が住んでいることの他に、穀物や家畜が豊富であり、またチャタヌーガからバージニア州へ繋がる鉄道の通り道でもあった。1862年から1863年を通じて、リンカーンは何人もの指揮官にこの難しい地形を突破し地域を占領するように圧力を掛け続けた。アンブローズ・バーンサイドは1862年12月のフレデリックスバーグの戦いで完敗し、西部戦線に配転されて、1863年3月にこの軍管区とオハイオ軍の指揮を任された。バーンサイドはできるだけ迅速にノックスビルに侵攻する命令を受け、一方、同時にウィリアム・ローズクランズ少将のカンバーランド軍はテネシー州中部でブラクストン・ブラッグ軍と対抗するという命令を受けていた(タラホーマ方面作戦とそれに続くチカマウガの戦い)。 バーンサイドの作戦はオハイオ州シンシナティからその2個軍団(第9軍団および第23軍団)で進軍することだったが、第9軍団がビックスバーグ方面作戦にあるユリシーズ・グラント少将の支援を命令されたために遅れた。第9軍団の帰還を待つあいだ、ウィリアム・P・サンダース准将の旅団を騎兵隊と歩兵隊の合同でノックスビルを攻撃するために派遣した。6月半ば、サンダースの部隊は鉄道を破壊し、サイモン・B・バックナー准将が指揮する東テネシー方面軍が支配していた市の周辺の通信を混乱させた。 8月半ばまでに、バーンサイドはノックスビル市に向けての進軍を開始した。ノックスビルに直接向かう経路はカンバーランド峡谷を通っており、防御する南軍側にとっては絶好の地形になっていた。バーンサイドはその道ではなく、南軍の側面に回りこむ道を選んだ。ジョン・F・デコーシー大佐の師団に北から脅威を掛けさせ、一方他の2個師団はノックスビルに向かう岩だらけの山岳路を40マイル (64 km)回り道して南軍陣地の南に向かった。道路の状態は良くなかったが、その部隊は1日30マイル (48 km)ほど進軍できた。 チカマウガ方面作戦が始まったとき、バックナーは南のチャタヌーガに呼びつけられ、カンバーランド峡谷には1個旅団、ノックスビルの東に1個旅団を残しているだけだった。サミュエル・ジョーンズ少将がバックナーに代わって東テネシー方面軍の指揮を執った。バーンサイドの騎兵旅団が9月2日にほとんど抵抗無いままにノックスビルに到着した。翌日バーンサイドとその主力軍は市内を占領し、地元の民衆に暖かく迎えられた。 カンバーランド峡谷では南軍ジョン・W・フレーザー准将指揮する2,300名の経験不足な兵士が守備に付いていたが、バックナーの撤退に続いて何をすべきか命令を受けていなかった。9月7日、北からはデコーシー隊、南からはジェイムズ・M・シャッケルフォード隊が接近してくる事態に直面して、フレーザーは降伏を拒否した。バーンサイドとサミュエル・A・ギルバート大佐の歩兵旅団がノックスビルを出てわずか52時間で60マイル (96 km)を急行した。フレーザーは勢力で圧倒されていることを認識し、遂に9月9日に降伏した。 バーンサイドはローズクランズ軍の支援にいくらか騎兵隊を派遣し、東テネシーからバージニアに抜ける道と峡谷を掃討し、できるならばバージニア州アビントンの向こうにある製塩所を確保する遠征の準備をおこなった。この間にチカマウガの戦いが迫り、ワシントンD.C.からは南に動いてローズクランズを支援するという興奮した要請が来ていたのを、新しく占領したばかりの領域と忠実な市民を放棄することを望まなかったバーンサイドは実質的に無視した。さらに岩の多い地形を抜けて物資を動かす難しさがあり、その供給基地から遠くに動いた場合に深刻な問題になることを懸念していた。
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