育野重一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/06 09:09 UTC 版)
いくの しげかず 育野重一 |
|
---|---|
生年月日 | 1926年1月14日 |
没年月日 | 2003年10月26日(77歳没) |
出生地 | ![]() |
国籍 | 日本 |
職業 | 美術監督 |
ジャンル | 映画 |
活動期間 | 1954年 - 1999年 |
配偶者 | 育野瓔子(妻) |
育野 重一(いくの しげかず、1926年〈大正15年〉1月14日[1][注釈 1] - 2003年〈平成15年〉10月26日[2])は日本映画の美術監督。日本映画・テレビ美術監督協会常任理事。東京都出身[1]。東宝連合技師会所属。
経歴
1950年、映画『また逢う日まで』に美術助手として参加[1]。その後、美術助手として活動後、1962年に東宝の美術担当として専属契約[1]。
2003年10月26日に心不全の為死亡(享年77歳)[3]。
代表作
- 1950年3月21日 - 「また逢う日まで」
- 1954年11月3日 - 「ゴジラ」[1]
- 1961年7月30日 - 「モスラ」
- 1962年6月1日 - 「どぶ鼠作戦」[1]
- 1962年10月20日 - 「やま猫作戦」
- 1963年8月11日 - 「マタンゴ」[1][2]
- 1966年5月28日 - 「アルプスの若大将」[1]
- 1966年11月20日 - 「お嫁においで」
- 1967年10月28日 - 「クレージーの怪盗ジバコ」
- 1968年3月16日 - 「100発100中 黄金の眼」
- 1969年2月15日 - 「愛のきずな」
- 1969年12月20日 - 「コント55号 宇宙大冒険」
- 1970年8月11日 - 「激動の昭和史 軍閥」[1]
- 1971年6月16日 - 「呪いの館 血を吸う眼」[1]
- 1974年6月29日 - 「青春の蹉跌」[1]
- 1982年12月18日 - 「三等高校生」
- 1983年4月9日 - 「小説吉田学校」[1]
- 1983年8月4日 - 「嵐を呼ぶ男」
- 1983年12月24日 - 「エル・オー・ヴイ・愛・N・G」
- 1984年8月11日 - 「零戦燃ゆ」
- 1985年1月26日 - 「愛・旅立ち」
- 1987年1月17日 - 「首都消失」
- 1987年9月12日 - 「この愛の物語」
- 1989年12月16日 - 「ゴジラvsビオランテ」[1][2]
- 1992年4月18日 - 「奇跡の山 さよなら、名犬平治」
- 1995年5月27日 - 「ひめゆりの塔」
受賞歴
- 1996年 - 第19回日本アカデミー賞優秀美術賞[4]
脚注
注釈
出典
参考文献
![]() |
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。
|
- 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1990年1月1日。
- 『映像メディア作家人名事典』日外アソシエーツ、1991年11月12日、24頁。 ISBN 4816911111。
- 『現代物故者事典(2003 -2005)』日外アソシエーツ、2006年3月、36頁。 ISBN 978-4-8169-1969-5。
- 『映画の賞辞典』日外アソシエーツ、2009年。 ISBN 4816922237。
- 『映画賞受賞作品事典 邦画編』日外アソシエーツ、2011年。 ISBN 4816923128。
外部リンク
固有名詞の分類
- 育野重一のページへのリンク