聖バルナバ医院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:58 UTC 版)
「コンウォール・リー」の記事における「聖バルナバ医院」の解説
リーは「愛の家庭」の舎監に看護婦三上千代を招聘した。千代はリーに診療所を作ることを進言。1916年「慰めの家」という診療所を建てた。医師は服部ケサである。両者とも熱心なクリスチャンではあったが、宗派の違いで二人は聖バルナバ医院を辞し「鈴蘭医院」を開院した。しかし開院23日後に服部ケサは逝去した。 リーは聖バルナバ医院の後任をさがした。1924年に佐藤貞雄、1927年に中村時太郎を招聘したが、十分な設備がなかった。1929年、藤倉電線の社長松本留吉は医院の新築整備の費用、医師の報酬などを寄付した。第4代の鶴田一郎医師が着任した。なお、貞明皇后からや公的な援助も歴史の中にはあった。 医院の規模は昭和6年(1931年)で収容定員300名とある。個人経営で、昭和5年(1930年)の実績は397名(延数を365で割った数)。患者待遇:食費一人一日16銭5厘、治療費5銭7厘。しかし日本らい史には、収容者数は最盛期には200人を超えたとある。なお秘群衛第十九号(秘密群馬衛生)という文書によると昭和16年(1941年)に聖バルナバ医院においては患者収容ホーム5か所を有し、本年3月現在73名の患者を収容しつつとある。これらの人数の差は、用途の目的により異なるからである。最初の場合バルナバ・ミッションの医療部門の統計をバルナバ医院として届けた。私立療養所では最大という記載もある。
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