織田との攻防とは? わかりやすく解説

織田との攻防

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:47 UTC 版)

小谷城」の記事における「織田との攻防」の解説

亮政の孫長政元亀天正年間朝倉義景とともに織田信長戦ったことで知られる元亀元年1570年6月小谷城から南に5キロほどの地点繰り広げられ姉川の戦いでは浅井朝倉連合軍織田徳川連合軍激突し織田軍が勝利したものの、信長小谷城堅固さ考慮して城攻め断念姉川南岸横山城築城、有力部将の木下秀吉(のちの豊臣秀吉)を配置し浅井氏対す付城前線基地)とした。 その後もしばらく小谷城から出る浅井軍織田軍とで争いがあったが、各拠点を守る磯野員昌佐和山城)・宮部継潤宮部城)ら浅井軍諸将徐々に寝返っていき、付城横山城から、小谷城南側正面にある虎御前山へと前進した。しかし、一方で小谷城丁野城・山本山城小谷城から琵琶湖まで東西並んだ支城落城せず、小谷城包囲へは持ち込めずにいた。 1573年天正元年8月8日山本山城の守将である阿閉貞征羽柴秀吉7月ころに名字木下から羽柴改める)の調略乗って織田方に寝返った。この城が手に入ったことで織田方は小谷城包囲可能になり、信長その日夜半岐阜城進発し、10日には越前から小谷城への北国街道ルート封鎖することに成功したこのため援軍赴いた朝倉義景軍勢2万といわれる)は小谷城に入ることができず、余呉木ノ本などに布陣した。この混乱の中で焼尾の砦を守る浅見対馬守降伏した焼尾小谷城峰続きである大嶽の砦の北麓にあるため、信長小谷城攻略意思をさらに固めた8月12日グレゴリオ暦9月8日)、畿内一帯に嵐が襲来した京都などでも被害の記録がある)。この嵐を好機見て信長はこの日自ら浅見対馬守の手引きで大嶽攻撃落城させることに成功した。さらに翌日には形勢不利と見た朝倉軍が撤退するところを一気強襲し朝倉軍に壊滅的な打撃与えた刀根坂の戦い)。信長嫡男織田信忠の手勢などを押さえ残して越前攻め込んで朝倉氏滅亡させたのち、8月26日には虎御前山に帰陣した。翌8月27日羽柴秀吉軍勢清水谷急傾斜から小谷城京極丸を急襲して陥落させ、本丸を守る長政小丸を守る長政の父・久政を分断させることに成功したその日のうちに小丸落城させ、久政は自害した。さらに本丸落ち9月1日長政本丸の袖曲輪にある赤尾屋敷自刃し、ここに浅井氏滅亡した。 この時の戦い詳細については「小谷城の戦い」を参照

※この「織田との攻防」の解説は、「小谷城」の解説の一部です。
「織田との攻防」を含む「小谷城」の記事については、「小谷城」の概要を参照ください。

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