綸巾・羽扇
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諸葛孔明は『演義』において、初登場の第38回から死去する104回まで、「羽扇」を持ち「綸巾」をかぶり「鶴氅」をまとう道士的な姿で通している。羽扇は鳥の羽で作られた扇であり、綸巾は帽子で、現在では『演義』の影響により、ともに諸葛孔明の代名詞となっている。しかし『芸文類聚』巻67、裴啓『語林』などに司馬懿が諸葛亮を評した言として「葛巾毛扇もて三軍を指揮し」とある。毛扇は塵という鹿の尾で作った扇で、羽扇とは別物である。西晋代に清談を行う名士・貴族によく使用された。 実は『演義』成立以前は「羽扇綸巾」といえば、主に赤壁の戦いに向かう周瑜の姿を表す衣装であった。史実の赤壁の戦いの主役は周瑜であり、北宋の詩人蘇東坡が赤壁の戦いについて謳った『赤壁賦』においても、周郎(=周瑜)は讃えられているが、孔明は全く登場していない。蘇東坡が黄州流謫時に作った「赤壁懐古」の小題をもつ詞『念奴嬌』でも、「遙想公瑾当年、小喬初嫁了、雄姿英発、羽扇綸巾、談笑間檣櫓灰飛煙滅」と明らかに周瑜を指して「羽扇綸巾」の語が用いられている。 南宋時代に入っても『念奴嬌』を受けて、著名な文人が周瑜の「羽扇綸巾」の詩や詞を残している。楊万里の詩『寄題周元吉湖北漕司志功堂』(『誠斎集』巻23所収)で「又揮白羽岸綸巾」と謳われているのは周郎であり、趙以夫の詞『漢宮春次方時父元夕見寄』でも「応自笑、周郎少日、風流羽扇綸巾」と、周郎と羽扇綸巾がセットになっている。また孔明が神仙として赤壁で大活躍する『平話』でも、まだ羽扇綸巾を身につけていなかった。 ところが、南宋の劉克荘が諸葛孔明について詠んだ詞では、蜀に攻め入る段階で「但綸巾指授」と、綸巾姿であることが謳われている。同じく南宋の魯訔の『観武侯陣図』(『全宋詩』第33冊)にも「西川漢鼎倚綸巾」(西川は蜀のこと)という表現があり、李石の『武侯祠』(『方舟集』巻五)では「綸巾羽扇人何在」と綸巾・羽扇がセットとして孔明の衣装となっている。ただしこれらはすべて孔明が入蜀する段階の姿を詠んだものである。 このように羽扇綸巾は赤壁の戦いにおける周瑜をのぞけば、入蜀以降の時期限定で孔明と結びつきつつあった。しかし『平話』以降、赤壁の戦いで孔明が周瑜をしのぐ活躍を見せて人気を得ると、周瑜の意匠であったはずの羽扇綸巾も、孔明の若い頃からの衣装として定着していくことになる。元代の詩人薩都剌の『回風坡、弔孔明先生』(『雁門集』巻4)では、赤壁で活躍する孔明に対して「綸巾羽扇生清風」と謳っている。このように元代後期以降は「羽扇綸巾」が周瑜から孔明の代名詞へと変化した。
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