綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文の少なさ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
「後醍醐天皇」の記事における「綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文の少なさ」の解説
後宇多院政では、「治天の君」を補佐する側近集団である伝奏(花山院師信、六条有房、六条有忠、坊城定資、中御門経継、吉田定房、万里小路宣房)が重用され、綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文率は約71%であった。しかし、後醍醐親政においては綸旨・院宣文書数に対する伝奏奉文率は約4%であった。いくら天皇集権を目指す後醍醐であっても、側近無しに専制的な天皇権力を復活させることは不可能であったはずであるが、以上のように後醍醐には伝奏が集まらなかった。その理由は、伝奏となる名家層の人々が後醍醐への奉仕を嫌がり、距離を保とうとしたからであった。名家層の人々が後醍醐への奉仕を嫌った理由は2つ考えられる。1つ目の理由は、後醍醐が中継ぎの天皇であったからである。後宇多は後二条天皇の子や孫に皇位を継承させたいと望んでおり、後醍醐は中継ぎ役(一代主)として即位していたため、後醍醐と親密に接することは、後々に現れる正統な皇位継承者の機嫌を損ねる可能性があった。2つ目の理由は、後醍醐が倒幕を堅く決心していたからである。後宇多は歴代の治天の君の中でも、特に幕府との融和を心掛けていた。後宇多の腹心の六条有房は何度も鎌倉に下向しており、そのような親幕姿勢によって、文保の和談では皇位も東宮の地位も大覚寺統によって独占できた。それに対して、後醍醐は後の行動でも知られるように倒幕派であり、名家層の実務貴族は倒幕運動に巻き込まることを「危険な暴挙」として嫌った。その著名な例として、吉田定房が後醍醐の倒幕を諌めた「吉田定房奏上」がある。
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