綸旨の乱発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:58 UTC 版)
後醍醐は本来綸旨を貰う身分ではない土民や地侍、辺境の武装商人、農村武士にまで綸旨を与え、民衆世界にある反体制、あるいは体制外的な勢力を根こそぎ倒幕軍事力として動員しようとした。そこに伝統や故実への配慮は見られず、結果的に、天皇制の危機の克服を目指したはずの後醍醐が、王権の最も重要な道具立てである綸旨の権威を回復するどころか逆に失墜させてしまい、『二条河原の落書』にみえるように気軽に偽綸旨が作られるような空気感を生み出した。 建武の新政下においても後醍醐の綸旨乱発は変わらず、現実や伝統を無視し、綸旨によって物事を個人的に裁定し、これまでの政治の仕切り直しをしようとしたため、朝廷内部の政治行政のありようが破壊的打撃を被った。また、後醍醐自身も「建武以後の綸旨は、容易く改めてはならない」という旨の綸旨を発しており、自分が綸旨を乱発し、しかもその内容が改変されたり誤っていたりすることを認めている。後醍醐は自身の政治的失敗を、雑訴決断所を開設し、裁判の効率化を図ったものの、後醍醐の天皇絶対化の志向は変わらず、後醍醐自身の理念的な無理から生じる政治の矛盾を、後醍醐の意思によって手直ししようとしたため、何の解決にもならず、多くの人物からの離反を招いた。 加えて、後醍醐はこの時代特有の法慣行(「古き良き法」の尊重)に対する配慮が足りなく、また元弘戦乱時に出された護良親王の令旨も否定した。
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