綸旨発給
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 06:16 UTC 版)
同年7月11日(8月12日)、義教と不仲であった弟の大覚寺門跡義昭が出奔し、翌永享10年(1438年)7月に大和天川で挙兵した。この挙兵は越智・箸尾だけでなく、後南朝、比叡山山徒、山名氏・佐々木氏の一部、鎌倉公方足利持氏と連携した大規模なものであった。さらに持氏が関東管領上杉憲実討伐を開始し、憲実を支援する幕府は持氏討伐を実行することになった(永享の乱)。斯波持種・甲斐常治ら斯波軍は9月12日に京都へ召還され、16日に関東へ出陣した。 この際、義教は持氏討伐のため明徳の乱以来となる錦の御旗と治罰綸旨発給を後花園天皇に要請したが、多武峰に対しても治罰綸旨を要請し、8月28日(1438年9月17日)に発給された。幕府軍は総攻撃を開始し、翌永享11年(1439年)3月に至り越智維通が討たれ、10年に及ぶ戦乱は一旦終結した。
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