結成〜ラフ・トレードとの契約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 14:07 UTC 版)
「ザ・リバティーンズ」の記事における「結成〜ラフ・トレードとの契約」の解説
ザ・リバティーンズの設立メンバーはカール・バラーとピート・ドハーティ。2人が出会ったのは、バラーが大学で演劇を学び、ドハーティの姉エイミー・ジョーとロンドンのリッチモンドでフラットをシェアしていた時。ドハーティは別の大学で英文学を学んでいた。この時ドハーティは17歳であった。2人は互いの才能と音楽への情熱に気づき、大学を辞め北部ロンドンのカムデン・ロードで共同生活を送るようになる。当初ドハーティはバラーとザ・スミスのモリッシー/マーのような歌手とギタリストの関係になろうとしていた。2人が住んでいた家は、家賃は週60ポンド(約1万2000円)で壊れた裏窓から入り込むしかなく、ドハーティとバラーはシングルのマットレスで一緒に寝ていた。 隣人のスティーブ・バーロウ (Steve Bedlow〈一般的には、Scarborough Steveと呼ばれる〉) とバンドを結成した。バンド名をはじめ「ザ・ストランド (The Strand)」とし、のちに「ザ・リバティーンズ」とした。由来は、マルキ・ド・サドの『ラスト・オブ・ザ・リバティーンズ (Lust of the Libertines)』から(「ジ・アルビオンズ〈The Albions〉」も検討されたが取り下げされた)。ジョン・ハッサールとジョニー・ボーレルと出会い練習を行った。ボーレルが練習に現れなくなり、ハッサールがベーシストとしてバンドに加わった(ボーレルは、のちにレイザーライトのメンバーとなった)。この時点では、まだ固定的なドラマーがいなかった。バンドはギグを行うようになり、多くはドハーティとバラーのフラットが開催地となった。 3曲レコーディングするために、プロデューサーにセックス・ピストルズの作品を手掛けたことのあるグウィン・マシアス(Gwyn Mathias)を迎え、オデッサ・スタジオへ入った。しかし、バンドは自分たちが用意してきたドラマーに落胆し、 マシアスはポール・デュフール (Paul Dufour、別名:ミスター・ラズコックス〈Mr. Razzcocks〉) をヘルプとしてバンドに入れた。デュフールは、50ポンドでレコーディングに加わることを同意した。彼は54歳であり、他のメンバーよりかなり年上だった。年齢差は大きかったものの、デュフールはバンドに加わったことで十分感動していた。バンドは、より多くのレコーディングをし始め、さらに遠くの開催地でギグをするようになった。 2000年5月、バンドはワーナー・ミュージック・グループの弁護士であったペルシャ人女性のバニー (Banny Poostchi) と出会った。バニーはバンドの潜在的な才能を認識して、マネージャーを引き受けた。『Legs 11』のレコーディングを行う。しかし、2000年12月になっても契約が決まらず、デュフール、ハッサール、バニーがバンドを離れていく。バニーは同じようなスタイルで成功しているザ・ストロークスを見て、ラフ・トレード・レコードと6か月以内に契約を交わす計画を立てる。この期間にバンドは多くの曲を書き上げ、結果的に1stアルバムに収録されることになった。バニーはポール・デュフールの年齢が高すぎると考え、ゲイリー・パウエルをドラマーとして加入させた。2001年12月、ラフ・トレードと契約を交わした。 バンドはベーシストが必要となり、ジョン・ハッサールが再度加入した。しかし、バンドの中心はドハーティとバラーであるため、ハッサールはバックグラウンドに留まることを通告される。ドハーティとバラーは、ティーズデール通り112aにあったフラットを一緒に賃借し、アルビオン・ルームズ (The Albion Rooms) と名付けた(彼らのゲリラ・ギグの多くの開催地になった)。
※この「結成〜ラフ・トレードとの契約」の解説は、「ザ・リバティーンズ」の解説の一部です。
「結成〜ラフ・トレードとの契約」を含む「ザ・リバティーンズ」の記事については、「ザ・リバティーンズ」の概要を参照ください。
- 結成〜ラフ・トレードとの契約のページへのリンク