結婚・母親として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 14:03 UTC 版)
「エリザベス・アン・シートン」の記事における「結婚・母親として」の解説
1794年1月25日にエリザベスは19歳でウィリアム・マギー・シートンと結婚した。ウィリアムは25歳で、裕福な輸入貿易を営む実業家だった。ニューヨークで最初に英国国教会の主教となったサミュエル・プロヴォスト(英語版)が、二人の結婚を挙式した。 エリザベスの夫ウィリアムの父親であるウィリアム・シートンは 貧しいが由緒正しいスコットランドの家の出であり、1758年にニューヨークへ移民し、ニュージャージー州のリングウッドで鉄工場の監督や協同所有者となった。ロイヤリストであり、ニューヨーク州・ニューヨーク市における最後の英国王室の公証人であった。自分の息子たち、ウィリアム(エリザベスの夫)とジェームスを輸出入貿易を営む商社、ウィリアム・シートン社に入れた。この会社は1793年にシートン・マイトランド社となった。エリザベスの夫ウィリアムは、1788年にヨーロッパの有力な会計事務所を訪問した。またイタリアのリボルノで著名な商人のフィリッポ・フィリッチと友人となり、彼の会社と商取引を行い、ストラディバリウスのバイオリンをアメリカにもたらした。 ウィリアムとエリザベスが結婚して間もなく、この夫婦はウォール・ストリートの瀟洒な住まいに引っ越した。ニューヨークの社交界では著名になり、シートン家はブロードウェイやウォール・ストリートの近くにある聖公会系の教会に属した。敬虔な信者だったエリザベスは後に主教となったジョン・ヘンリー・ホバート(英語版)を霊的な指導者とした。義理の姉妹で、最愛なる心からの友人・レベッカ・メアリー・シートンと共に、エリザベスは継母の慈善事業を引き継いだ。この事業は病人や死を迎える人々を親身になって看病するものだった。エリザベスは実の父親から影響を受け、1797年に小さな子供を持つ未亡人を救援する団体の特別会員となり、その団体の会計係として奉仕した。 エリザベスの夫の父親が亡くなった時、シートン家の運命は1812年・米英戦争前の不安定な経済情勢により下降線をたどり始めた。エリザベスと夫ウィリアムの間には、アンナ・メアリー、ウィリアム2世、リチャード、キャサリン、レベッカ・メアリーの5人の子供たちがいたが、エリザベスの夫・ウィリアムには下に7歳から17歳までの弟・妹が6人いて、夫妻は彼らを引き取り、夫妻の子供たち5人に彼らが加わることとなった。このことから、エリザベスは、大きな邸宅に移る必要があった。
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