紛争への経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 21:07 UTC 版)
「タイ・フランス領インドシナ紛争」の記事における「紛争への経緯」の解説
詳細は「第一次泰越戦争(英語版)」および「第二次泰越戦争(英語版)」を参照 「プレアヴィヒア寺院」、「アンコール・ワット#歴史」、および「フランス領インドシナ#歴史」も参照 第二次世界大戦勃発直前の1939年8月、フランスはタイ王国に対して不可侵条約の締結を要請していた。これはフランス領インドシナ(以後、仏印)の安全を図るためであり、翌1940年6月12日にバンコクにおいて仏泰相互不可侵条約に調印した。しかし、フランスがドイツに敗れたこと、独仏休戦(1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイは旧領回復への行動を開始した。 タイのピブーン政権は、新たに発足したフランスのヴィシー政権に対し、1893年の仏泰戦争(英語版)でフランスの軍事的圧力を受けて割譲した仏印領内のメコン川西岸までのフランス保護領ラオス(フランス語版)の領土と主権やフランス保護領カンボジア(英語版)のバッタンバン・シエムリアプ両州の返還を求めたが、フランス政府はこの要求を拒否した。 日本の同盟国であるドイツによるフランス本土占領と、親独のヴィシー政権の樹立を受けて日本軍が北部仏印進駐を行ったため、日本と友好関係にあったタイにとっては、日本軍が南部仏印にまで進駐してしまうと領土要求が難しくなるという懸念が生まれていた。当時のタイ政府はあくまで強硬な姿勢を貫き、9月頃より国境付近で両軍による小競り合いが頻繁に発生するようになった。
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