純正不曲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:19 UTC 版)
東京帝国大学の医学教授である佐藤精は『斎藤与一郎伝』において、岡田の性格を「直情径行で、不義邪悪を憎むこと極度には激しく、判断は自らの尺度を以て狷介、一度それに接すると、火を吐くような毒舌で罵倒し、(略)相手に誰であることをも弁じない」と述べている。 奉公時代には奉公先の店の主人が、客に対してわざと商品の値段を高く言い、客が値下げを要求したところへ本来の値段を言い、客に安く買ったと満足させる、といった方法を岡田に教えたところ、岡田はそれをペテンだといって店先の仕事を嫌い、店の奥の掃除になどに専念していた。この時代からすでに、不正を嫌う岡田の性格が現れていた。商人のもとに奉公しながら、自身は商人の道へ進むことはなかった理由も、この経験によるものである。 戦中には憲兵隊が蔵書を押収しようとした際も、決して屈することなく1冊の蔵書も渡すことはなかった。同じく戦中に岡田の新聞への投書が特別高等警察の目に触れ、病床の岡田に召喚状が来たときも、最期まで出頭することはなかった。 函館市会で、函館市長の坂本森一と対立した際、坂本に「図書館長たる貴男は、理事長の立場がだれよりもよく判る筈ではないか」と言われたところ、岡田は「市長、たわけたことをいうな、不肖岡田は図書館長である前に、市民の代表たる議員の立場で質問しているのですぞ、そのくらいのことが判らんで市長が勤まると思うか、このたわけ者めがッ」と返した。坂本は思わず苦笑し、論戦もそれで終わりとなった。元議長の高木直行は後に、「大市長といわれた自信満々のあの切れ者を“たわけ者”と極めつけたのは後にも先にも是空居士一人であったと思う」と語っている(『是空』は岡田の雅号の一つ)。 一方では、こうした岡田の言動が市会で反感を呼んだことが、10年にもわたる図書館問題の膠着に繋がったとも見られている。また市立図書館が完成して岡田が館長に推された際も、市の理事者は岡田の性格を嫌って同意しなかった。そこへ宮崎郁雨らの依頼により齋藤與一郎が調停を務め、館長就任が実現した。しかし、その翌年の1931年(昭和6年)には、市会で図書館費の4分の1が削減された。これに対して図書館後援者たちが削減分を寄付しようと、「従事員復活経費寄附採納方」を請願したが、これも否決された。これらのことから、岡田の言動を快く思わない議員たちが当時もまだ存在していたものとも見られている。
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