算術の少年しのび泣けり夏
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季 語 |
夏 |
季 節 |
夏 |
出 典 |
旗 |
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評 言 |
『三鬼百句』の自注では「愚息は父に似て数学的頭脳を持ってゐない。宿題が出来ないで一人シクシク泣く。それは哀れであるし、父から見れば気の毒でもあった」と書かれてある。言うなれば、夏休みの数学の宿題に苦しみ泣いている息子の姿を父親の視点から「算術の少年」と客観的視点に置き換えた一句である。 しかし、文学作品は、短詩型であれ散文であれ一様に世に出た瞬間作家から離れ、一人歩きをはじめる。その後どのように読まれようと読者に委ねられる。特に俳句は十七音と短いから、読者の経験や感性でいかようにも読まれる。それが俳句の魅力だと私は思っている。 暑い夏のある日、湿った空気が重く立ちこめる教室で一人居残って算数の勉強をする少年。座っているのは、すのこ座面の重い木の椅子に傷だらけの木の机。グランドでは、級友たちが遊んでいる声が遠く聞こえる。算数の問題が解けない悔しさとみんなと一緒に遊べない寂しさをかみしめ鉛筆を強く握りしめながら、誰もいないが、誰にも気づかれないよう一人泣いている少年。句末の「夏」が力強く、さまざまな「夏」の持っている要素を私たちに伝えてくれる。こんな風に私は読む。 私は、高校で教鞭をとっているが、この句をよく生徒に紹介する。特に夏休み前の学級通信や年次通信には、うってつけの句だ。多くの生徒が自分の経験などと重ね合わせて、読みながらニヤッとしている。時代も変わり、それぞれがそれぞれの背景で読みながらも、句の中に流れる精神は、時代を超えて基本的に変わらずに伝わる俳句の底力を感じさせる名句である。 |
評 者 |
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備 考 |
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