第2段階(1959年から1962年)・「2000万人非正常死」の時期
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この時期には、異常な自然災害を契機とし、1958年から始まった「大躍進」(積極的に経済を拡大しようとする政策)運動の失敗、誤った生産報告に起因する過剰な食糧の取り立て、中ソ対立に伴うソ連の全面撤退に対する債務返済のための無理な農産物輸送という3つの悪循環が生じたと言われた。これについては後年「天災」というよりも、食糧分配の不均衡などの政策上の過ちによる「人災」であったことが明らかにされた。小島後掲書によると、後退は食糧凶作からはじまったが、最大の理由は水利・植林・鉄造りなどに農民が動員されすぎ、収穫時に十分な刈り取りができなかったことにあるとされる。その他、男性が動員された後の農作業を受け持った主婦が不慣れだったり、公共食堂のタダ食いで種子まで食べてしまい、翌年の蒔きつけができなかったりしたことも原因である。1960年の死亡率が出生率を上回る「絶対減」が生じ、自然増加率はマイナス0.45パーセントとなった。人口ピラミッド上でも1960年出生コーホート(同時出生集団)人口がくびれており、世界各国の人口ピラミッドでもまれにみるピラミッド形状となる。このことからしても、当時の「大災害期」の凄まじさ(「2000万人非正常死」といわれる)が推測できる。実際、今日でも死者の数を伝える正確な記録、資料は残されていない。しかし様々な形で伝えられる数字は、実に1500万人から4000万人に及んでいる。総人口の2.5パーセントから6パーセントに及ぶ餓死者の数である。もちろん餓死線上の人々はその数倍に及ぶと考えられる。
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