第2次・第3次ベルルスコーニ内閣
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「ウンベルト・ボッシ」の記事における「第2次・第3次ベルルスコーニ内閣」の解説
1999年、欧州議会選挙で得票率が4.5%にまで下落した事で、ボッシは独立という新たな政治路線が失敗したと判断した。以降、党員向けの機関紙などを除いて北部同盟が独立を主張する事は殆どなくなった。代わりに北部経済の新たな障害となっていた外国人移民に対する攻撃をスローガンに加え、演説では黒人やイスラム教徒への中傷を繰り返した。他に反EUの姿勢も見せ、「共産主義的な銀行屋の巣窟」と攻撃した。 2001年、独立を取り下げて移民を攻撃した事で右派政党とも意見が一致し易くなり、再びフォルツァ・イタリア、国民同盟と連立して第2次ベルルスコーニ内閣が成立した。内閣では地方自治も所管とする行政改革担当大臣に就任したが、むしろ話題は外国人攻撃の政策に集中した。移民への指紋押捺を求める「移民対策法」を成立させ、不法移民にも「移民船が警告射撃をしても従わない場合は撃沈しても構わないと命令した」と発言して論争を呼んだ。 2004年、演説中に脳卒中で倒れて病院に搬送され、議員・大臣を辞職して政治活動から身を引いて静養した。 2005年1月11日、ロンバルディア州ルガーノにある政治家カルロ・カッターネオ(イタリア統一戦争で連邦主義による国家建設を主張した)の屋敷で復帰会見を行った。復帰後は長年の構想であったイタリアの連邦主義者を統括する団体を設立すべく、シチリアで「南イタリア版北部同盟」とも呼ばれる「自治運動」と政治同盟を結ぶ事に同意した。二つの党のシンボルマークを合一したものを製作し、北部に在住する南部出身者への呼び掛けも行ってより幅広い層への支持拡大を図った。 2008年、総選挙で下院60議席・上院26議席を獲得して結党以来の勝利を収め、フォルツァ・イタリアと国民同盟が合同した「自由の人民」と連立を組んで第3次ベルルスコーニ内閣が成立させた。ボッシは行政改革担当大臣を改称した連邦政策担当大臣に就任した。
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