第2期カルテット時代
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結城の死とバンドの解散を乗り越えることができなかった矢代は、再び日本を離れ、ニューヨークへと渡った。ライブ活動を再開し、2枚のアルバムを発表した27歳の頃から、矢代の音楽性はさまざまな方向へと発展を見せ、オーソドックスなジャズからフリージャズ、ロックからゴスペルまで、同じ人物の作品とは思えないほどにバラエティに富んだ作品を次々と生み出すこととなった。 32歳の時、ニューヨークで知り合い、2枚のアルバムなどで共演したゴスペル・シンガーのテディ・ベイカーと結婚した。当時、テディは重度の麻薬中毒であったため、結婚当初の数ヵ月は、テディの故郷であるボストンでテディの中毒の治療にあたっていた。テディの治療が終了したのち、テディを伴って帰国した。 日本に戻った矢代は、金井恭平のマネージャーであった北原の事務所『ニュー・オリエンタル・グルーヴ』に所属し、間もなくして第2期矢代俊一カルテット(サックス・矢代俊一、ピアノ・高瀬彰、ベース・佐久間将大、ドラム・槙翔一郎)を結成して、日本での活動を再開した。このカルテットでの活動は数年続いたが、高瀬との音楽的な方向性の違いや、佐久間の力量不足などが災いし、第1期と比較すると、その評価はあまり芳しいものではなかった。 だが、矢代自身の評価と人気は相変わらず高く、「水郷ジャズ・フェス」、「森と泉のジャズ・ウィーク」などへの出演をはじめとするライブ活動を精力的に行うかたわら、トレンディドラマの挿入歌の作曲や、往年のアイドル歌手・今西良のアルバムの作曲と演奏などの活動を行っていた。 35歳の時、矢代はプライベートで大きなトラブルに見舞われた。矢代が気付かないうちに、妻のテディの麻薬中毒が再発し、それが原因で麻薬取引のトラブルに巻き込まれたテディが、マフィアに惨殺されるという事件が起こったのだ。それに関連して、矢代もまた台湾系のマフィアに拉致、監禁され、暴行を受けた。その直前に16年ぶりの再会を果たしていた滝川の手により救出されたものの、肋骨骨折など全治6ヶ月の重傷を負い、肺にも損傷を負ったため、サックスの演奏がしばらく不可能になってしまった。さらに、矢代の大学の後輩にあたるベーシストの泉からストーカー行為を受け、退院後初のステージとなった日比谷野外音楽堂でのジャズ・フェスティヴァル(矢代はシンセサイザーのみを演奏し、サックスの代役は金井恭平が務めた)の際に、泉に刃物で襲撃されるという事件も起こった。(『黄昏のローレライ』) プレイヤーとしてのキャリアは1年ほどの中断を余儀なくされたものの、この間、精力的に作曲活動を行い、シンセサイザーのみで構成されたアルバム『隊商都市』などを発表した。だが、第2期矢代俊一カルテットについては、高瀬が前衛的なジャズを志向する新バンドを結成し、佐久間がアメリカへ音楽修業に出かけたために、解散することとなった。
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