第二次世界大戦前の仕事と Z1
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 06:35 UTC 版)
「コンラート・ツーゼ」の記事における「第二次世界大戦前の仕事と Z1」の解説
1910年6月22日、ドイツのベルリンで生まれる。1912年、家族と共に東プロイセンのブラウンスベルク(現ポーランド・ヴァルミア=マズールィ県ブラニェヴォ)へ移住。父はそこで郵便局員の職を得た。ツーゼはブラウンスベルクでイエズス会系の学校に入学。1923年、一家はホイエルスヴェルダに移り住み、そこで彼は1928年にアビトゥーアに合格し、大学入学資格を得た。 王立シャルロッテンブルク工科大学(現在のベルリン工科大学)に入学し、工学と建築学の両方を学んだが、それらは彼にとって退屈だった。結局土木工学を専攻して1935年に卒業。一時期、フォード・モーターで芸術的才能を生かして広告のデザインをしていた。その後、ベルリン近郊のシェーネフェルト(ドイツ語版)にあるヘンシェルの航空機工場で設計技師として働いた。その仕事でいやになるほど手で計算を行い、その経験によって機械による計算を夢想するようになった。 両親の家で1936年、Z1と呼ばれる機械を制作した。これは電気駆動の二進浮動小数点数の機械式計算機で、若干のプログラムが可能であり、命令をさん孔テープ(35mmフィルムを使用)から読み取るものであった。1937年、フォン・ノイマン・アーキテクチャを先取りしたような特許を2件申請している。Z1は1938年に一応完成した。しかし3万点もの金属部品の精度不足のため完全動作には至らなかった。Z1とそのオリジナルの青図は第二次世界大戦の中で破壊される。
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