第一変とは? わかりやすく解説

第一変

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/05 14:50 UTC 版)

廖平」の記事における「第一変」の解説

第一変期の学術的成果は『今古学考』である。これは廖平経学の中で、最も価値あるものとされている。 これは漢代経学今文古文とに区別し、その区別される理由を礼制の相違捉えるのである具体的には、今学(今文学派)は「王制」(『礼記』の一篇)を根拠として立説されているのに対し古学古文学派)は『周礼』を根拠としているとするものである。ただし第一変期の思想は、礼制を以て今古文を「平分」することを求めたもので、今学と古学との尊卑上下説いたものではない。今古文家は各々奉ずる経文と伝文(経の解釈書)を用いればいとする止まる。 では何故に相違生まれたのかというと、それは今文古文とで各々持した孔子の説が異なるからであるとされる。まず古文学奉ずる孔子の説は、孔子早年の説である。春秋時代末期生れ孔子は、落ちぶれた世の中如何にすれば立て直せるかに苦心していたが、若い頃孔子は、まだ周王室に期待する所があった。そのため、専ら従周(周に従うこと)を力説し周王室の再建期待していた。この時の基本理念述べたものが『周礼』である。一方孔子晩年になると、周王に対してもはや期待することができなくなった。そのため自ら理想語りはじめた。これは因革(周制を因革すること)となって現われたが、その時要綱が「王制」である。 このように孔子学説には早年晩年との二区分があり、各々その主張には変化があるとされる。しかし弟子中には孔子早年学説承けただけで、各地に散らざるを得なかった人々がいた。一方で孔子晩年に至るまで側に仕えた弟子もいた。この中早年の説を承け弟子は、地方帰ってから孔子早年の説を支持したが、晩年孔子接した人々は、孔子晩年の説を支持したこのため孔子故郷現在の山東省)を中心とする弟子孔子晩年の説を、燕などの地方帰っていた弟子孔子早年の説を支持し孔子没後互いに反目するようになったというものである以後、この争い漢代にまで流れ込み今文学派は主に博士となり、古文学派民間流行したとされる。この今古文は互いに相容れることなく峻別して考えなければならない。しかし両者ともに孔子根本とするため、何れも等し価値持っている。そのため、学者各々奉ずる学問独立して学べばよく、今古文を混合して理解してならないという点にのみ気を付ければよいということになる。 これを明らかにするために作成された『今古学考』巻上の二十の表は、以後幾つかの修正を受けつつも、基本的に漢代今古文両派の説明として継承されることになった

※この「第一変」の解説は、「廖平」の解説の一部です。
「第一変」を含む「廖平」の記事については、「廖平」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第一変」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第一変」の関連用語

第一変のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第一変のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの廖平 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS