竹取物語の研究
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新井は昭和13年(1938年)、東京帝国大学文学部国文科在学時に、卒業論文として竹取物語の本文研究を行うことを決意する。池田亀鑑や反町茂雄の協力のもと調査・研究を行い、翌14年(1939年)に卒業論文「竹取物語の研究」を提出。その翌15年(1940年)に国文学者・横山重と知り合う。横山や同じく国文学者である太田武夫、実業家で蔵書家でもあった戸川浜男らの協力を得て、全国に散在する竹取物語の諸本を調査し、勤務の傍ら、昭和17年(1942年)秋から調査資料の整理、および新井が重要だと判断した七本の翻刻を開始した。しかし翌18年(1943年)6月、新井は突如病に倒れ、慶應義塾大学病院に入院する。病床の新井は死に直面して無気力状態にあり、横山が成果を刊行するよう要請しても当初乗り気でなかったが、再三の要請に刊行を決意し、横山と太田に一切を依頼した。横山は、横山らが校正作業、太田が解題執筆にあたることで、新井自身は後記を書くことのみに専念できるように計らった。また、この過程で更に新出の三本の本文が加わる。昭和19年(1944年)4月3日に書かれた後記の中で、新井は「衷心忸怩たるものがある」と自身の無力を嘆いている。時は太平洋戦争の末期、確保した印刷用紙が盗難に遭うなどの紆余曲折を経ながら、横山ら関係者は刊行のために奔走するも、後記執筆の翌月5月4日、新井はついに刊行を見ることなく病没した。こうして完成した『竹取物語の研究 本文篇』は、4ヶ月後の同9月に刊行された。協力者との伝言役であった新井の妹の光子は、協力者の一人で池田亀鑑同門の国文学者・中田剛直と結婚し、中田が竹取物語の研究資料を継承、昭和40年(1965年)に『竹取物語の研究 校異篇・解説篇』として結実した。また、山田忠雄の著作である『竹取物語総索引』も、新井が研究の一環に作成した資料が基になったものであり、本来は新井・山田の共編として『竹取物語の研究 索引篇』となる予定であったことが「序」に記されている。
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