空軍の父
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 15:39 UTC 版)
1926年11月6日、バルボはムッソリーニによって空軍大臣に指名された。 山岳部隊出身のバルボは空軍に関しては殆ど専門的な知識や経験を持たなかった。それでも彼は自らの庇護下に入った空軍が陸軍から完全に独立する為に様々な政治的努力を重ね、空軍の組織としての基盤を作った。1928年8月19日からは空軍大将の地位を得て、ムッソリーニから独立空軍の全権を実質的に委任された。バルボは空軍の責任者としてイタリア空軍の威信を高める為に国際活動への参加を推進し、スピードレースや南極探検などで空軍に世界的な名声を与えていった。彼は専門的な空軍司令官ではなかったものの、優れた飛行事業家(アビエイター)であった。 またバルボ自身も大臣でありながら自ら長距離飛行部隊の現場司令官という危険な任務に就き、見事大西洋無着陸横断飛行を達成して空軍の躍進に心身両面を捧げた。特に二度目の横断は世界的な注目を集め、着陸したシカゴではバルボ率いるイタリア空軍部隊はアメリカ住民から熱狂的な歓迎を受けた。バルボ通りと改名されたシカゴ第7通り(現在でもバルボの記念碑が残されている)で盛大なパレードが行われた後、アメリカ大統領ルーズベルトからバルボに空軍勲章が授与された。アメリカの白人層のみならずインディアン達からも尊敬を受け、スー族から「Chief Flying Eagle」という称号を進呈されている。 バルボとイタリア空軍の名声は頂点に達し、イタリア系アメリカ人はバルボを祖国の英雄として賞賛した。バルボもイタリア系アメリカ人協会を訪れ、「自分達の出自に誇りを持て」と激励した。バルボと空軍は既にアメリカ白人の主流層に合流しつつあったイタリア系アメリカ人に最後の後押しを与えたのである。帰国後、ムッソリーニはバルボを新たに創設した空軍元帥に叙任し、名実共に彼は空軍の権威となった。
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