稲生物怪録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 08:08 UTC 版)
詳細は「稲生物怪録」を参照 稲生平太郎16歳の時、寛延2年(1749年)の5月末の夕方、隣家の三ッ井権八とともに、比熊山で肝試しの百物語をしたことがきっかけで、7月1日から30日間のうちに、彼らの身の回りで怪異現象が続出した。このときの彼の体験は、『三次実録物語』という書として記され、原本は広島藩在住の稲生武太夫の子孫に伝えられてきている。妖怪の親玉、山本太郎左衛門から貰った木槌は享和2年(1802年)に平太郎の手により國前寺に納められ、現存している。 また、柏正甫(かつら せいほ)という武太夫の同役の武士が、夜を徹して本人から詳しい話を聞き出して、天明3年(1783年)、『稲生物怪録』として書き留めた。これを国学者、平田篤胤が寛政11年(1799年)に筆写して秘蔵し、文化8年(1811年)に門下生に校訂させた。篤胤の校訂本が元になって、読物や絵巻となり、明治以降、泉鏡花や巖谷小波の小説、折口信夫の俄狂言の題材となった。また、稲垣足穂によって、現代語訳されたりもした。 稲生武太夫を祭っている稲生神社(広島市南区)には、荒俣宏や京極夏彦・水木しげるも作品取材のために足を運んでいる。
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