移民と羊飼い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:52 UTC 版)
バスク人の移民がピークに達したのは、1830年代にスペイン内部で起こった第一次カルリスタ戦争後である。1860年代末にはカリフォルニア州北部のシエラネバダ山脈山麓で金が発見された。バスク人移民の子孫はこの地域にもっとも顕著に残っており、シエラネバダ山脈を挟んで反対側のネバダ州北部、さらに北のアイダホ州にも移動した。1848年の米墨戦争後には現在のカリフォルニア州、アリゾナ州、ニューメキシコ州がアメリカ合衆国に併合されたが、大西洋岸北西部に居住する数千人のスペイン系バスク人またはメキシコ系バスク人がいたと報じられている。1848年のゴールドラッシュはバスク地方に住む多くのバスク人を引きつけ、またすでに中南米に移住しているバスク人をもカリフォルニアに引きつけた。 1850年代までにはカウエンガ・バレー(今日のカリフォルニア州ロサンゼルス)で働いていたバスク人羊飼いもいた。1870年代、ロサンゼルスとインランド・エンパイアはスペイン、メキシコ、ラテンアメリカからの数千人ものバスク人を集めたが、アメリカ合衆国の国勢調査においてバスク人は例外的であるため、アメリカ合衆国南部におけるバスク人の人口は明らかにされていない。1880年代までに、バスク人移民はオレゴン州、ユタ州、モンタナ州、ワイオミング州にまで広がり、少ないながらもアリゾナ州、ニューメキシコ州、テキサス州にも広がった。1895年までに、約10,000人のアメリカ人がバスク系アメリカ人であると自己定義していた。 第二次世界大戦中には深刻な労働力不足に陥ったため、スペインから何千人ものバスク人がリクルートされた。1940年代から1970年代までの間、バスク人はWestern Range Associationとの契約の下にやってきた。現在の国勢調査によるバスク人人口の統計は、19世紀以降のアメリカ合衆国の人口の全体的な増加傾向と比較して著しく低い。アメリカ合衆国全体でバスク地方やスペインに起源をもつ人物が大幅に減少した時代以来、バスク人移民の激しい減少が見られた。自身をバスク人であると定義しているアメリカ合衆国在住の人物の大多数は、19世紀頃に到着した最盛期のバスク人移民の子孫である。 バスク地方出身者の孫である、またはネイティヴアメリカン、アングロ・ヨーロッパ人や他の人種との混血であるなど背景は様々であり、自身をどの程度「バスク人」であるとするかは人によって異なる。現代にアメリカ合衆国にわたったメキシコ系移民でバスク語の姓を持つ人物の数は著しく多く、100万人もの人物が民族的にバスク人かその姓によってバスク系であると自己定義している。
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